残念でした。2作品とも入賞できませんでした。
ブログのタイトルで「入賞を逃す」と書いたのは、単に「落ちた」なのですが、通知メールに「惜しくも入賞を逃されてしまいしたことをご連絡・・」と書いていただいていたのでそう書いてみました。文字通り「惜しくも」と言う話ではないと思います。
次、頑張ります。
応募作品は2021年11月1日の投稿に2つともあります。参考まで。
ブログ「もんく+a」から、建築仲間 Team OBASU の活動記録ブログとしてリロードしました。
アイデアコンペへの参加が活動の中心です。
従ってここはTeam OBASUの頭の中そのものと言えます。
(2021年~)
残念でした。2作品とも入賞できませんでした。
ブログのタイトルで「入賞を逃す」と書いたのは、単に「落ちた」なのですが、通知メールに「惜しくも入賞を逃されてしまいしたことをご連絡・・」と書いていただいていたのでそう書いてみました。文字通り「惜しくも」と言う話ではないと思います。
次、頑張ります。
応募作品は2021年11月1日の投稿に2つともあります。参考まで。
Registration - 2022 Skyscraper Competition -eVolo | Architecture (←クリック)
意訳です。詳細はサイトで確認してください。
eVolo Magazineは、世界中の建築家、学生、エンジニア、デザイナー、アーティストを対象に、2022年の「スカイスクレイパー・コンペティション」への参加を呼びかけます。2006年に創設された「スカイスクレイパー・コンペティション」は、超高層建築を対象とした世界で最も権威ある賞の一つです。斬新な技術の提供、材料、プログラム、美学、及びグローバル化、柔軟性、適応性、デジタル革命による空間構成によって超高層ビルのデザインを再定義するものが評価されます。超高層ビルと自然界、超高層ビルと地域社会、超高層ビルと都市の関係を検証するフォーラムです。
参加者は以下の点に関して考慮しなければなりません。テクノロジーの進歩、持続可能なシステムの探求、現代の都市が抱える経済的、社会的、文化的な問題を解決するための、新しい都市・建築手法の確立。これは、天然資源やインフラの不足、人口の急増、公害、経済の分断、無計画な都市の拡大を指します。
このコンペティションは、ダイナミックで適応力のある垂直のコミュニティを創造する上で、パブリックスペースとプライベートスペース、そして個人と集団の役割についての研究です。 これは、人間と自然の間のダイナミックな平衡に基づく、新たな生活圏やテリトリーの探求と適応への応答でもあります。我々自身のシステムを自己調整することで知的に成長することができる、応答し適応する新しいデザインの方法論です。
場所、プログラム、サイズなどの制限はありません。その目的は、参加者に最大限の自由を与え、制約のない、最も創造的な方法でプロジェクトに取り組んでもらうことです。21世紀の超高層ビルとは何でしょうか?この巨大構造物の歴史的、文脈的、社会的、都市的、環境的な責任とは何でしょうか?
eVoloマガジンは、世界中のデザイナーの想像力を刺激し続けることを目指します。彼らは経済的、環境的、知的、知覚的な責任のある、新しい建築的言説をリードする思想家たちであり、現代の超高層ビルとして私たちが理解するものを変え、都市計画や私たちの生活様式の改善に影響を与えるものでありましょう。
REGISTRATION
建築家、学生、エンジニア、デザイナーの方々のご参加をお待ちしております。学際的(多彩)なチームの参加をお勧めします。
参加者は2022年1月25日までに登録の事。
2021年11月16日までは早期登録で参加費USD95。
2022年1月25日までは後期登録で参加費USD135。
1登録=1プロジェクト。
複数プロジェクトで参加可能。各エントリー毎に個別登録。
1チームの参加人数に制限なし。個人での応募も可能。
登録が承認後にeVoloから登録番号が送信される。(24時間以内)
登録番号は投稿ボードに記載する。
SCHEDULE
2021年8月6日 コンペ発表・登録開始
2021年11月16日 - 早期登録締切
2022年1月25日 - 後期登録締切
2022年2月8日 - プロジェクト提出期限(米国東部時間23時59分)
2022年4月26日 - 受賞者の発表
SUBMISSION REQUIREMENTS
本コンテストは、デジタルコンペティションであり、ハードコピーは不要。2022年2月8日(米国東部時間23時59分)までに、電子メールで skyscraper2022(あっと)evolo.us まで企画書を提出する事。
下記の内容を提出ファイルに含める事。
1. 図面、断面図、パースなどのプロジェクト情報が記載されたボード2枚。
提案を説明するために必要と思われるすべての情報を含めてください。
ボードのサイズは24″(h)×48″(w)で、横フォーマット。
ボードの解像度は、150dpi、RGBモードで、JPGファイル。
各ボードの右上には、参加番号を記入する。
個人が特定できないようにしてください。
ファイル名は、登録番号の後にボード番号を付ける。
例:0101-1.jpg、0101-2.jpg
2. プロジェクトのステートメントを含むDOCファイル(600語以内)。
ファイル名は、登録番号の後に "statement "という単語を付けてください。
例:0101-statement.doc.
3. 応募者の氏名、職業、住所、電子メールなどの個人情報を含むDOCファイル。
ファイルの名前は、登録番号の後に「info」という単語を付けてください。
例:0101-info.doc.
4. すべてのファイルは、登録番号を冠したZIPフォルダーに入れる。
例:0101.zip
ファイルのサイズが20MBを超える場合は、wetransferやGoogle Driveなどのファイル共有サービスを利用して、skyscraper2021(あっと)evolo.us宛に提出する。
JURY
Volkan Alkanoglu [Principal, VA | DESIGN]
Gianni Botsford [Principal, Gianni Botsford Architects]
Steven Chilton [Principal, SCA | Steven Chilton Architects]
Tsvetelina Georgieva [Principal, DesignMorphine]
Nuru Karim [Principal, Nudes]
Arthur Mamou-Mani [Principal, Mamou-Mani Architects]
Moon Hoon [Principal, Moon Hoon Architects]
REGULATIONS
コンペティションは匿名で行われ、登録番号が唯一の識別手段となる。
コンテストの公式言語は英語。
登録料の払い戻しはできません。
審査員への連絡は禁止されています。
eVolo Magazineは、コンペティションの主催者として、必要と判断された場合、コンペティションのスケジュールを変更する権利を有します。
参加者は、自分のデザインのすべての著作権を保持します。
eVolo Magazineは、コンペティションに提出されたすべてのプロジェクトを印刷およびデジタル出版物に掲載する許可を与えられます。
応募者がコンペティションの規則のいずれかでも考慮しない場合は失格となります。
参加することで、規則に同意したものとみなされます。
AWARDS
1st place – $5000 USD
2nd place – $2000 USD
3rd place – $1000 USD
受賞者、佳作、入選作品は、2022年発売予定の書籍『EVOLO SKYSCRAPERS 4』に掲載されます。
受賞者および特別賞は、eVoloと、近日発売予定の書籍『EVOLO SKYSCRAPERS 4』を含む複数の国際的な印刷出版物に掲載されます。さらに、この結果は、最も重要なオンラインの建築・デザイン関連の出版物や、The Huffington PostやThe Wall Street Journalなどの一般メディアにも掲載されます。
これまでの受賞者は、以下の紙媒体で紹介されています。
(省略)
FAQ
誰が大会に参加できますか?
世界各国の学生やプロフェッショナルなど、どなたでもご参加いただけます。
複数の作品を応募できますか?
はい。ただし、各プロジェクトは個別に登録する必要があります。
プリントしたボードの提出は可能ですか?
本コンペティションはデジタルコンペティションであり、すべての応募作品はコンペティション概要に記載されたデジタルフォーマットでなければなりません。
摩天楼の高さに制限はありますか?
特定の高さの要件はありません。
プログラムに指定はありますか?
ありません。参加者は、自分のプログラム、場所、コンセプトを完全に自由に設定することができます。
Impact The Tiny House Competition (←クリック)
サイトでなくコンペのBriefの方を要約します。意訳です。詳細はサイトで確認してください。
Introduction
家」とは、誰にとっても親しみのある空間です。私たちの安全な避難所であるだけでなく、家は、使う人やその活動のためのシェルターという日常的な機能を超えて感情的、個人的なレベルで私たち一人一人とつながっています。
時代ともに、「家」の定義も変化し続けています。
21世紀には、AirBnB、Co-Living、Smart Homes、Tiny Homesなどのコンセプトが若い世代から年配の世代まで人気を博し、世界中でムーブメントを巻き起こしました。
建築の作品や提案を見ていると、作品そのものに加えてそれを作成した人が健康で健全なのだと感じるものが多い。そして良い作品に対する評価に気持ち良い空間と言う事も多い。陰と陽があるとすれば、世に出てきて評価される作品はほとんどが「陽」の側にあるように見える。中には「陰」を扱っているものもあるが、陽の側にいる人が陰を陽に引き上げる方法としてのものだったりする。
雑誌やネットに掲載される広告の写真の中に人の多くが前歯を見せて笑っている。その感じに似ている。見た目にもネガティブに感じられるもの、そんなものは作られなくて当然なのかもしれない。しかしながら、現実の世界には孤独な人、世の中や社会に馴染めない人は多い。馴染めて普通に生きているように見えても心の中で違和感を感じている人も多い。
「大勢に囲まれてるのに……すごく寂しい」、解消法は 5万5000人を調査 (BBC)
'I'm surrounded by people - but I feel so lonely' (BBC)
そうした状況はネガティブで改善されなければならないと言うのは普通の思考かもしれない。そんな状態の中に長くとどまる事で健康を害し寿命を縮めてしまうとの報告も目にする。
逆に孤独のようなものから感じられる寂しさやネガティブな感情は自分の心の中にだけある幻想であってそれは事実ではないと言う人もいる。その場合には気持ちの持ち様を指導される。つまり修行のような事だ。それとてネガティブな感情を持つ事を否定する側からの発言だろう。修行を終えて超越してしまったか悟ってしまった側からのアドバイスだ。
心が強い人は「孤独は妄想」と知っている (東洋経済オンライン)
ともかく、何かサジェスチョンしようとか提案すると言う行為はどうしても陽の側に偏る。世の中がポジティブなものを志向している限りにおいて、これは仕方ないのかもしれない。
ただ、本当にその提案で救われる事があるのだろうか?もちろんその答えは有るになるだろう。ただ、次から次へと出てくるネガティブな感情に対して追い付く事は無いのかもしれない。
美術と言う分野では、それは特に作家個人の思いや感情を載せてかまわないし、それが良いとされる。ネガティブ?、大歓迎だよ、と言う事になっているように見える。肯定され有難がられてすらいる。音楽?、もちろん大歓迎だろう。悲しくて悲しくてどうにもならず、何の解決策も無くエンディングを迎える歌は山ほどある。小説にもある。悲嘆に暮れて終わる作品や、嘆くだけ嘆いて終わり、一体何で作者のそんな感情に最後まで付き合わされなければならないのか!と言う作品がある。
昔、インドネシアに住んだ時に、その地域出身ではないがそこに住み続けている人の家にお邪魔した。その地域出身でないと言う事で目立たないように暮らしていた。言われなければそこにその人たちが住んでいる事さえわからなかった。
その人の家に招かれて石造りの狭い入口のドアを入ると、暗かった。真っ暗と言って良いほどに暗かった。その先に何があるのかがわからなかった。光が一つも無かったので目が慣れる事も困難だった。ドアを開けた事によって射し込んだ細い光が床にぼんやりと反射して床の状態だけはわかるようになった。床には片足を載せられるだけの大きさの飛び石が2つほど置かれていた。飛び石の下にはなんと、水が張られていた。よく見ると小さな魚が泳いでいる。
飛び石の先の部屋に案内されたが何も見えない。どうも小部屋のようだ。主人が小さな灯りを点けてくれたので確かに小部屋だと確認できた。家には他にも部屋はありそうだったが結局何も見えなかった。貧乏で電気が来ていないのではない。静かな人柄だったけれども修行僧のような生活を志向しているのでもないらしかった。普通の人だ。今となってはその家のインパクトが強すぎたせいか、そこで何を話したのかが思い出せない。
明るくなく、本を読んだり食事をするにも不自由でただ暗く狭い部屋。であるから見事とも気持ち良いとも言えないそんな部屋で彼はずっと過ごしていたのだった。小さな魚とともに。あの家は少し極端な例だったけれども、インドネシアの事をいくらか知っている人であれば心にわだかまるドヨドヨとした感情の存在、神が存在しても積極的に介入して解決してはくれないその状況、そして普通にそれとともに生きる人たちがいる事はわかってもらえるだろうと想像する。
もちろん気持ち良い空間を否定するものではないが、その反対のネガティブを許すものの存在。そは実際には必要なものなのではないかと感じている。それは解決策としてそこにあるのではなくて、ただそうした事の存在を肯定するためだけにあると言う意味で。
「次世代店舗アイデアコンテスト2021」は一次審査を通過できなかったと思われます。
11月初旬に通過者にはメールで通知との事でしたが、メールが来ませんでした。残念ですが仕方ないでしょう。今回は店舗と言うよりもその部分的な提案だったので弱かったはず。他の方々がどんな提案をされたかを見てもっと勉強します。
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世の中には多くの人がいて、その多くの人々の大半がどこかに所属している。学校でも会社でもその他の組織やそして家庭に。あたかもそこに適合しているかのように所属していてまるで世界はそうした関係で埋め尽くされているかのようだ。
けれども実際には完全に埋め尽くされているわけではなくて、隙間が多い。完璧に埋め尽くされていると思っているのなら単に隙間の部分を見ないふりをしているだけだ。実際の世界は思うより隙間だらけでスカスカなのじゃないだろうか?
スカスカにしない方法は「割る」だ。四角い家を間取りと言う道具で割る。割れば隙間はできない。上手く割るために人は考える。その際に割られた方の都合は考える必要はない。なぜなら割る方が所有者だから。しかしながら人は自分の都合によってそこを立ち去るだろう。残された割られた者達を集めて聞いてみる。君たちは本当にそれで良かったのかと。
誰も声を出して答えはしない。なぜなら、割られる方には選択肢が無かったからだ。
SketchUp / 1週間チャレンジをAmazonから発売しました。
Kindle版が490円です。(読み放題で契約の方は0円) 大きなサイズの図が多いのでタブレットかパソコンで読んでいただくと良いと思います。
ペーパーバック版は印刷代がとても高いので税込1980円(本体1800円)にもなってしまいました。高いのでたぶん誰も買わないでしょう。ペーパーバック版はA4サイズで150ページ。Kindle版と異なり紙で読み易いように再編集しています。紙のメリットを活かす為に章毎にメモ欄も付けました。
SketchUp / 1週間チャレンジ (Kindle版) (←クリック)
この書籍の特徴は、普通の基本操作の解説に加えて躓くポイント、操作はできても考え方がわかり難いところ、そしてSketchUpには不可能な事や操作は正しくてもエラーが出てしまう事などを実際にやってみて検証しています。基本操作の方法ではできない事をプラグインでカバーする方法も同じ場所に書いています。下図はその例です。
当初そんな予定は無かったのですが、SketchUpを学習する多くの方々にも有用とのご指摘を受けAmazonから電子書籍として出版する事になりました。日程は未定ですが近日中に出版される事になります。他で宣伝もしませんし、あまり売れるとも思いませんので値段は安く設定します。
内容は基本操作に的を絞っていますが、基本操作でカバーできない部分や間違えやすい部分に関しても掘り下げて書いています。また基本操作を用いてどこまでモデリングできるかの検証とその中での実際の困難についても書いています。
いろいろやってみているが、今のところ前回のモデルのところに戻って爆風にやられた風にしてみている。
えっ、何の意味があるかって?
最近は自然災害等、思いもよらないいろいろな事があって避けられないと言う事もある。家が必ずしも安心できる場所ではなくなってきていると思いませんか?
何年後かにAIが導入され、人の言葉を理解してモデリングしてくれる事を望む。「ちょっとこうしてみて」と言うようになると良いのだが。
1つの建築物の中には必ず「一緒にする事」と「分割する事」が混在している。これはどの時代のどの建築物でもほぼ同じだと思う。もちろん世界中の全ての建築物を見て言っているのではないけれど、これまで実際にも写真等でも見た物は全てそうなっていた。
どう言う事かと言うと、建築と言う作業をすると何らかのまとまった1つの物を作る事になる。1軒の家とか1つの美術館や博物館、オフィスビルや集合住宅は1つの建物か1つの敷地に入った1群になっている。つまり1つの物として企画される。
例えば1軒の家は1軒の家だけれど、その中身は壁やパーティションによって区切られている。間取りで区切られてそれぞれに機能を割り当てられて1軒になっている。中には機能無しの空間と言うのもあるけれど、隣りにある空間や部屋とは違う物としてやはりそれの1つの機能と考えても良いわけで、それもやはり1軒の家の中に「一緒にされ」ている。
けれど、せっかく一緒にしたのに中身は「分けて」いる。何故なのだろう?
団地の中で「食寝分離」と言うのが標準になって使われた。このモデルが団地以外でもその後ずっと使われている。nLDKのようになって今でもある。夫婦の寝室、風呂、トイレ、キッチン、リビング、玄関、子供部屋のようになっている。分けるには物理的な理由もある。例えば水を使う部屋どうしはできるだけ近い方がコストが安いし換気の面でも似た性能が必要だ。でも、もしその問題がクリアできても「分ける」は存在し続けるだろうと想像する。
映画やドラマに出てくる億万長者の住む城のような家は1つ1つの部屋は広いけれど、やはり分けられているイメージがある。部屋が多くてお屋敷の中で迷ってしまうような。体育館ほどのだだっ広い1つの部屋に全てが入っていそうなイメージは無い。
うーん、人も猫と同じなのだろうか?やはり危険防止が分ける事の根本的な理由なのか?
新型コロナでこれまで毎日仕事に出かけていた人が家にいて、子供は学校に行けず、家族が一緒に1日の時間を家の中で過ごすようになって家族関係が悪くなるとか、中には暴力事件に発展すると言うようなニュースも出てきた。それが全体の傾向として増えたかどうかまではデータが無いのでわからないが、そうした問題も出てきた事は確からしい。
家族が一緒に過ごす事は総じて安心や安全を得るには良い事ではあるにしても、その中に入ると実は完全な安全、安心ではない。自分の経験の上でもそうだと感じる。父親と同じ部屋にずっといる事は困難な事だと感じるし、風呂やトイレに入るのに家族と言えど見られるのは全く現実的に考えられない。猫のように狭い場所で1人でしたい事がかなり多いのは確かだ。
日本の家ではお風呂とトイレが分かれているのが多い。家族で使うお風呂は1に1つ。トイレも共同で使うので家に1つだけ。そんな状態が全く考えられない国もある。トイレと風呂は一緒になっていてしかも寝室の横にある。だから面積が許せば寝室1つに必ずバスルームがセットになっている。だから寝室とお風呂やトイレが離れた場所に歩いていかなければならないなんて、しかもそのためだけに階段を昇り降りさせたりもするのはバンコクあたりのバックパッカーが泊まるドミトリーと同じだとなる。
しかしながら、ある意味、日本の家族関係は他国のそれよりは安全なのかもしれない。つまり、お風呂に入るのにパジャマを持って下着姿で歩けると言う意味だ。そう言う安全性の高い家族関係が背景にあるとも想像できる。それでも、壁が必要な程度には危険かもしれないが。
なぜこんな事を今更考えているかと言うと、理由は2つある。
1つは、写真でいろいろな建築家さんの家にまつわる作品を見ていると、その多くが従来の家のような壁やパーティションが無いかとても少ない。あってもそこに穴が開いていて壁らしい機能を捨てている。他人の家の中を写真で見せてもらうと狭い敷地であってもよく言う「気持ち良い空間」が作られていて納得する。家族がべったりではないにしろ、いると言う気配以上のものを感じる事ができて、それは家族のコミュニケーションに貢献する(らしい)。こうした傾向は、コミュニケーションしたい要求を反映してのものなのか?それとも、建築側の使命感として人どうしのコミュニケーションを促進するあいまいさを導入しただけなのか?
しかしながら、今現在でも「分ける」の方がメジャーなものとして市民権を得ているのが事実で、その不整合はどう考えれば良いのかとも思う。
もう1つは、これとは全く関係無い事だが、脱構築と言うようなのがあって、これに関してはいろいろ語られているしその内容もいろいろで簡単に一言二言で言えるものではないのだけれど、本当の根の部分まで遡るとどうやらこれはこうだと言う現状に疑問を呈するところから始まっているらしい。
それで、「一緒にする」と「分ける」が普通に誰もが疑問を持つ事なく行われている点に疑問を持っているのだ。分けるのを少なくする事に関しては、これと別の方向から多くの方々に検討されていて行われている。けれども、分け方に関しては手薄なのではないかと感じている。特に外観でなくてその中身と機能に関してだ。
上に書いた安全と言う前提条件が特に議論する事なく用いられている事や、プログラムの要素としてお風呂はお風呂と言う1つのエレメントとして不動の地位を保っているような事がそれが本当に今後も当たり前として通用するのか?と言う事だ。
変な話だけれど、東南アジアを旅行してどこかのお店で1皿頼んで食べる。レストランとしてはそれが普通で東京でもそれは変わらないが、キッチンまで同じとは限らない。そのレストランの裏に回って見るとレストランの建物の裏側に下水の溝が通っていてその脇に外国から出稼ぎで来ている労働者がコンクリートのたたきに座って盥を前にして皿を洗っている。日本ではキッチンの中に食洗器や洗い場が必ず作られていてそれはセットとして存在するが、ここではそうではない。少なくとも食器洗いは外に置かれて分割されている。労働も分割されているから見習いの調理人が皿を洗う事もない。
一般家庭でもキッチンに関してはドライキッチンとウェットキッチンに分かれている場合も多い。火を使う場所と洗い物や煮炊きが分かれている。掃除用具の置き場はどうだろう?日本ではクローゼットと一緒にしたりする場合があるが、外国人家政婦さんを雇うのが普通の国では自分の服と箒、バケツや床掃除用の洗剤を一緒に置く等はもっての外だ。
こうした事は生活習慣から来るものだけれども、それにしても、今のやり方、つまり分け方はどうなのだろうか?本当に分ける必要があるところで分けているのか、それとも必要や習慣と関係なく別のアイデアを導入して分けても構わないのではないかと思っている。その結果が機能的に異形であったとしても、それもアリにできる方法は無いのか?と。
こちらは提出する前のスタディ版パネル。特に説明を書き加える必要の無い単純なプロダクトなので3つのパーツと使い方(右下)を添えているだけ。
最初に、なぜ「Libesking Shader」と言う名称になったかと言う事から説明する。単純なバーを適当に、いやデタラメに組み合わせて網状にすると何かに似ている。そう、建築家ダニエル・リベスキンドのスケッチだ。リベスキンド氏と言えば、建築に興味がある人なら誰でも知っている脱構築建築の有名人。製品名の由来はそれだけ。面白がって付けている。
審査員の方々なら理由を言わなくてもわかってくれるはず。
そしてパネルの家だけれども、これはミース・ファンデルローエのファンズワース邸を描いている。手描きだ。つまり、モダンの雄ミースのデザインに脱構築を乗せていると言うわけ。
建築マニア向けのシャレになっている。(審査には影響しないだろうが、その程度のシャレはあっても良いはず。)
このパネルを見ていて何となく物足りない気がしてしまって提出版は少し変えた。
変えたと言っても内容には何の変更もない。パネルの見た目だけの変更になる。少しポストモダン調にした方が動きがあって好きなのだ。ただ、これまでの受賞作品が全てがモダンスタイルなのでこれをどう見られるかは心配だ。提出品その1の「PerchCam」。
最近の言えばモダンデザインを採用するものも多い。シンプルでかっこいい。ただ、そこに取り付ける全ての物がそのデザインにマッチするとは思えない。特に防犯カメラはその典型だ。性能の良い物を採用しようとすると形状がゴツイ。ゴツイ方が見た目で防犯になるのかもしれないが、家の外観デザインの事を考えると...うーん、そんなの取り付けたくないなあと思わないだろうか?
そして、この企画の大きな動機の1つは、人にとってどんなに美しい建物を建てたとしても元々そこにいたはずの動物たちにとっては無用の長物である事に間違いはない。それもどうにかすべきじゃないだろうかと考えた。
以前にその事を最初に思ったのは、ザッハハディドが香港に建てたか、計画して建てられなかったか忘れたが、氏のスケッチだった。空中に付き出した白い建物が確かに美しい。その周囲には緑の木々が描かれていた。人には良いが、動物には迷惑で何の役にも立たない物だよな、と思った。
そうだ、せめて家に止まり木位は付けてやっても良いのではないか?と言う発想。単純だ。
カメラのスペックは市販されている実在のカメラを参考にし、画角を計算するサービスで計算したものを採用している。その結果、鳥の止まる位置と遠方の人を同時に写せるレンズと(一般的な)撮像素子を想定する事ができた。
パネルの左上の四角い家のイラストは自前で描いている。家に見えると良いが。
AutoCADに相当するCADとレンダリングまでできるツールを探していたのだけれど、どれも企業向けで高価だった。だからと言ってヤフオクで怪しいライセンスを買う事は絶対できない。ライセンスの出所がはっきりしない物を使ってしまって泥棒になると損害賠償請求されたら大変だ。
ある程度ならCADが無くともドローソフトでどうにかなる。けれども数値で位置等を指定しなければならないので限界はある。ドローソフトでもmm単位で位置指定できるけれども、多少ズレが発生したりしてモヤモヤする。
そこでいくつか無料で使えるCADソフトを試してみた。最有力だったのがFreeCADだったけれど、これはなぜか2D図面に弱い。描く事は可能だけれどもチュートリアルでも他で描いたものを持ってきた方が効率的だと言っている。それではデザインを検討しながら2Dと3Dを行ったり来たりができないので良いソフトウェアだったけれども諦めた。その他にも3Dモデリングソフト等含めて検討したけれど、AutoCADのようにオーバーオールで面倒見てくれるものは少ないようだった。
仕方なく、最後にたどり着いたのがSketchUp。ずっと以前にSketchUpは少しだけ試したことがあったけれどもほとんど忘れている。そして操作が簡単なので細かい描写がどれだけできるかが不安だった。もっともこれは当初希望したように完全にAutoCADの代替品ではなくて、その一部をカバーするだけのモデリング用ソフトではある。
とは言え、最新版でないにしろオフラインで使用できるSketchUp Make 2017と言う無料バージョンを供給元のTrimble社がダウンロード(クリック)させてくれるのでそれでどこまでできるか確認してみる事にした。
なのでしばらくコンペ提出は停止するかもしれない。
前回の説明でだいたい想像ができたかと思うけれども、このようなシステムを提案した。
お金にならないものに価値を与えると言う事は、二酸化炭素排出権の取引と同じようなものだ。どうせならアマゾンやインドネシアなどの密林地帯に生えていて地球上に酸素を供給してくれている木、海にミネラルを排出して魚を育てている砂漠にもお金を払ったらどうかとも思うが、どうなんだろう?
とりあえず、ここでは景色にお金を払うと言うシステムにした。景色にお金が払われれば景観の保存→環境保持と人々の意識が移っていくのではないだろうか?そしてお金は当地に必要なインターネットや接続機器とそのメンテナンスに使われれば、識字率を上げ新しい産業を興すもとになり得るかもしれない。
作成しながら3枚にするか2枚で止めておくか迷った。3枚目は文字による説明ばかりとなり見た目が面白くない。読まない可能性もあるし、提案事項の単なる補足に過ぎない。しかし、最終的には3枚構成にした。
以下が最終案。
コンペの情報を検索していて気付くのはあまりにも多く「未来の」と言う言葉が使われている事だ。先日のスターハウスのコンペも「未来にある暮らし」と未来が使われていた。
冷静に考えて、そこで使われる未来が表すものは何の事だろう?
言語上の未来は今日から見た明日も未来であるし、1年後や10年後、そして100年後もどれも未来だ。しかしながら建築で未来となると少し限定される。なぜなら、建築物の寿命はどんなに立派な建物でも概して50年持てば良い方であるし、人の生活のリズムを考えれば20年かそこら経つうちに必ず区切りが来る。最近ではテクノロジーの進歩が速いために他人とのコミュニケーションの在り方や生活スタイルまで5年以内に変わる事さえある。
それを思いつつ未来の建築を模索するとすれば、さて、何をどうすれば良いのか?どこを前提条件にしてデザインすればよいのだろうか?どこまでの時間を考えれば良いのか?そしてさらに大きな問題は、今現在から想像不可能な将来の時間の中で起こる多くの変化に対して自らの建築と言うものはそれにどう対応する事を想定できるのかと言う事だ。
携帯電話が世に出た当時、多くの人は街角でどこでも電話してその場にいない人と話をしている姿はメンタリティに合わず、携帯電話は普及しないだろうと言った。普及するにしても高級車を乗り回すビジネスパーソンが使う程度だろうとはっきり言ったし、その意見を多くの人は支持した。スマートフォンが出た時には携帯電話ほどではないがやはり抵抗はあった。結果は知る通りであるけれども、要は多くの人はそれが大きな変化の兆しだとは想像できないのだ。
そして今、何が言われているかと言うと、もちろんそれは新型コロナの影響で家で仕事をするようになった、プラベートな空間だったはずの空間にそうでないものが入ってきてと言う話。そしてその為に建築でできる事は何かと言う話でもある。しかし、これは未来予測かと言うと、それは半分程度の事で、半分は突然発生した状況に修正して合わせると言うものだ。予想側の半分はそれがこれからも、つまりコロナが心配無くなったとしても続くのではないかと言うところになる。普通の意味での未来予想とは言い難い。
そこから先に対する答えはほとんど無い。できないだろう。
突然現れたコロナと違い事態が線形に進む変化で有ればそれでもまだマシで、例えば国内木材が余り始めた時、そしてカーボン排出の問題が重なった時にはこれからは木材をと言う動きが採られた。これは現在の状況から予測可能な未来への対応と言える。
しかしそれ以上に何が起きるか?しかも非線形で広範囲となるともうお手上げだ。
こうした議論は過去にメタボリズムの時代に既に行われていて、既に決着を見ている。答えはざっくりと言ってしまえば「諦める」だ。予測できない未来に対応するには変えられるようにすると言うもの。巨匠達にして答えはこれだ。
とすると、「未来の」を要求する時にそれは何を意味すると考えれば良いのか?、と一周回って元のところに返ってくる。この今現在、多くの場所で「未来の」建築への回答を求めている。そのいくつかはメタボリズム以上の答えを求めているだろう。今作って100年後にも200年後にも何らかの形で存続できる方法とは何か?ダメになったパーツを交換し、利用価値の無くなったプランを変更しと。
けれども別の一部で求めている答えは非常に無責任なものもある。未来予測してそれに合う建築をしなさいと、ただ単に無邪気に言っている。そうした問いに対する答えはさらに非常に無邪気なものである。無邪気な答えはそれが未来永劫固定された建築になりそのさらに先の未来は変化しない事になっている、決定版の未来像。空中に浮いた想像上の未来だ。つまりそれはSFに等しい。
だけれども、人間がそうした思考をしてしまうのも、人間の性質としてある意味仕方ないかも知れない。そこにあるのは変えたいと言う欲求や新規性を求める欲求だから。そこに現在の現実の問題解決を絡ませると何とは無しに説得力を得る。面白みを感じさせ、現実感を滲ませる。けれども、非常に無責任のようでもある。
8月22日分の投稿でも書いたが、パネルはあえてデザイナーが作ったクールなスタイルにはしていない。クールなスタイルでまともに作成して彼らに勝てる自信が無いのは言うまでもないが、集計用紙は事務仕事や現場仕事で使う物。だからそれにあえて合わせた。工場の現場から出てきた提案書のようなイメージにしている。デザインとは何?と言う問いにデザインはそればかりじゃないぞ!と言う回答のつもりでもある。
背景はおとなしく白ではなくて段ボール風。段ボールにいろいろ余計な紙が貼ってある。フォーマットが決められているのでそれにできるだけ従っているが、プロダクトが紙製品であってハサミやペンではないので少しそれに合わせて変えてしまった。
提案する製品は集計用紙。
通常の集計用紙は紙に単に何本もの横線が印刷されているだけ。それをどう使うかはユーザーが考えると言う簡単な仕組み。それを数字を記入するとグラフを描いたと同じように視覚化できる用紙に変えたのがこの提案。これは実際に自分で作って使った(ネパール人やバングラデシュ人に使ってもらった)事がある。これならエクセルより100倍速い。100倍高速に自分等の作業の結果がわかり、そしてすぐその場でフィードバックが出てくるから素早い修正が効く。そして現場管理者がこの集計用紙を見た時にも一目で問題がわかると言う仕組みだ。数字の羅列だけでは見落としが多くなるがそれが避けられる。
これが提出したパネル。スタディとそう違わない。よく見ると指紋や汚れがたくさん付いているように見えるが、それも追加した。わざと汚れた手で作成したように見せている。実際の指紋や汚れではなく、それ風に作成したものを使っている。
1次審査結果発表 | UR都市機構 (クリック)
※前の投稿記事からの続きです。
次は「Health-chi」について。
これは一目で面白い。こちらも大量供給され規格化された住戸群である団地の時代からどうにかコミュニティ作りをしよう、街作りをしようと言うトレンドがあった事を念頭に、さらにその次のコミュニティの在り方を模索したもの。時間のコンテキストを良くわかっていて、しかもそこから出てくる案が、それはそうだけど、物に展開すると奇想天外に見える。素晴らしい発想としか言いようがない。1つ目の作品「縁-ふち-」と2つめの「まちに風吹く、ソーシャルハウジング」を足して「健康」のスパイスをかけたら全く違ったものになったような感じだ。1次審査結果発表 | UR都市機構 (クリック)
昨日の夕刻にメールで通知があり、1次審査の結果が出ましたとの事。結果は、通過できませんでした。通過した方、おめでとうございます。そして、勉強のためにこれからその6作品のトレース(図ではなくて考え方や表現方法について)させていただきたいと思います。
まず、作品「縁 -ふち-」について。
Alternate Realities | Architecture Competition - the Charette(クリック)
(※画像はWorld Architecture Community(クリック)からのもの)
何が面白いかと言うと、建築環境を自分の想像力で決めて良い事。重力の存在、場所、その時代の技術レベルその他、要は題名にある通りに「代替現実」の中でデザインする。と言うより代替現実そのものをデザインすると言う要素も含む事になる。
そして主催者からのメッセージはこれ。
Unleash your creativity – Surprise us!
- Be critical – Say something about the world.
- Striking visuals – Capture the imagination of architects and non-architects alike.
- No design is too wild!
創造性を解き放ち我々を驚かせろ!
- 批判的であれ。世界に物申せ。
- 印象的なビジュアルを作れ。建築家もそうでない者でも同等に想像力を掻き立てろ。
- どんなデザインもワイルド過ぎる事はない!
エントリー期限:2021年12月30日まで (早期エントリーあり)
提出期限:2022年1月30日
エントリー料金:USD35、45、55 (エントリーの日による)
賞:名誉のみで賞金はありません。
ピョートル・スミエコーウィッチュ「ザ・ムーン・キャチャー」(2021年9月12日の記事)でも少し触れたのだけれども、自分自身で自分の心に制限を加えていて常識的でつまらない考えに囚われているのではないかと思っている。たぶんそれは間違っていないはずで、誰もが全く想像できないような何かを生み出す事を自分自身で諦めている可能性が高いだろう。
その次の段階へ行けるのだろうか? ねえ、せんたろ~さん。(ここは業務連絡。)
今朝Twitterを見ていたところ、隈研吾氏の「ユゥーアップ-四ツ谷」が話題に上っており、否定的な意見のコメントが長く連なっていた。建築関係者や建築を学ぶ学生のコメントはほとんど無いようだった。
写真を見れば確かにいろいろ言われるのはわかる。
Twitter(クリック)を検索すると出てくる。
昨日応募提出したが取り下げて変更し再提出した。
コンセプトの部分のみ変更した。初期案では文章のような形でコンセプトを書かずに絵のみにしていたが、提出後に冷静になって考えると独りよがりだったような気がした。シャワーを浴びてふっと一息と言うところで...そう言う場面ではもう何も考えていないのだけれども、脳みそはなぜか勝手に動いているようで「違うな」と気付いた。
ポイントは、デザインアワードの課題に書かれているここだ。
「デザインは、逆らうことができる、批判することができる、多様性を示すことも知識や理想を壊すこともできる。誰も信じて疑ってこなかった真実にもう一度フォーカスして、モノとデザインの関係を再構築しよう。社会も思想も人も暮らしもうごめいているときに絶対的なものなど何もない。グランドデザインはUNLEARNINGの先にある。」
この部分に応えていると言うのをきちんと文章にして示すべきだと考えた。提案としてはもちろん応えているし、答えの1つを出しているはずだ。けれどもパネルは伝えるためのものなのだ。
提出案は2021年10月16日の締切後に公開します。
2つ目のアイデアで応募完了。
提出パネルのデザインは本当に難しい。本体のデザインは機能で決まる部分が多いのでプロトタイプとしてシンプルを心がければ良いのだけれど、パネルに関してはそれ以上に見せる必要がある。建築でもこうした工業製品でも図面が入る事が要求され、文字も必要になるのでテンプレートを見本にと言うのがなかなかできない。
KOKUYOデザインアワードの場合はA3縦で最上段左にタイトル、右にコンセプト、中断にデザインと使用シーン、下段に寸法入り図面と決まっている。最初はこれに合いそうなテンプレートを使うのだけれど、すぐにめちゃくちゃになって元のテンプレートとはかけ離れたものになってしまう。こうした物にも癖が出る。良いか悪いかはわからない。
今回の提出品も締切後に公開。
街を歩くと種々雑多な音が聞こえる。それは自ら聞きたい音ではないのでノイズとして認識される。人の歩く音などはそう大きくはないが人が多いとそれでもかなりのものになる。カツカツとかパタパタとか、一つ一つが明瞭でなく擬声語にもならない音が集団になって入ってくる。そこにオートバイの通り過ぎる音が時々混じり、後ろから調理の音が聞こえてきたり風が吹いて木が揺れたりする。
それらはどれも自分にとって要らない音なのだけれども、聞いているとなぜか安心するような感覚がある。不思議だ。
これは音ばかりではないかも知れない。例えば木を植える。街はコンクリートやガラスや木材でピシッとした直線、直角、たまには弧で構成されている。人が作るにはそれが簡単だ。木は人が植えても建物のように直接にも直角にも平面にもならない。木は時々葉を落として地面をランダムなマダラ模様にする。どう見ても視覚上のノイズだ。
部屋に小物を置く人がいる。お皿、人形、料理が好きなら調理器具が吊るされるし、模型や花、本など様々な物が置かれる。どれもサイズがピシッと同じではないし、色もそれぞれ。これも言ってみればノイズだろう。
音に話を戻すと、音楽を制作する時に音を作るけれど、その時にもノイズを混ぜている。ギター演奏でも音符の音とは別の弦をこするキュッと言うような音が入る。それがまた良かったりする。
そう思うと、自分でコントロールできないノイズは自分にとって良いと感じるものの1つかも知れない。木材にも木目や色むらがありそれは味があると言って好まれるが、それもノイズだ。建築ではボイドと言う言葉があって、建築は場所を全て機能で埋め尽くさず、ポンっと何も無いポイントを作ったりする。またはできてしまう事を喜んだりもする。ボイドは多くの場合ランダムに配置されたりする。まるでデザインしたのでなくて、できてしまった風にその意図を隠すように。それもある意味ノイズを混ぜていると言えないか?
先日、間取について書いたけれど、間取志向では一般に、可能な限り床面積に無駄を作らないようにする。つまりこちらはノイズを排除する考え方だろう。
何が良いか悪いかと言うつもりは無くて、自分の目指す方向はこのノイズの方だなと思う。ノイズ、これを追求して行くべきなのだろうと考える。
今日、メールを受信したところ、コクヨさんからメールが入っていた。
[応募の締切間近!] とビックリマーク付きで。
そこで、もう1つアイデアを思いついてしまったので一つ短期間で仕上げてみる事にした。建築には全然関係ないのだけれども、パネル作成の練習のつもりでやってみる。それに設計は建築より機械系の方が仕事では慣れているので。まあどちらにしても同じようなものだ。
今回のアイデアは、ペンやパソコンで使う機器はもうこれはこんな物だと誰もが普通にそう思うほどに一般的で使い方も形状も決まってしまっている。けれども、いや、それでまだ不便な使い方になっているよね、と感じる事もある。あまりに普通過ぎて誰ももうそれを不便だとは言わなくなっている。人間はおかしなもので、不便な仕事、辛い仕事に慣れて毎日のようにしているとそれをする事が自分の誇りのように考えてしまう。毎日「痛」勤しているのだ。
さて、今は具体的にどんなアイデアかはここに書かないが、もう1つだけ重要なポイントを書いておこう。それは、日本の物作りの原点みたいな事で、「小さく作る」と言う事。アメリカの大きな自動車を見ててんとう虫スタイルの車を作ったり、ウォークマンを作ったりしてきたそのやり方だ。そう言うのは忘れずにさらに何度もやってみるべきじゃないかと考えている。
だから今回は何かを小さくしてみる。
これも個人ではなくてTeam OBASUでの参加。そして最終提出パネルは締切後の2021年10月16日にここで公開します。
President’s Medals(クリック)
ここは学生作品のコンペサイトで、過去から最近までの受賞作品が山ほど見られる。本当に山ほどある。そしてレベルが高い。世界中の建築を学ぶ学生の作品なのでどうしても良いものが選ばれる。
作品の傾向はバラバラで、実施プロポーザルに近いものから完全インスタレーションまでいろいろ。ほとんど文字が書かれておらず、図面らしきものも無いどちらかと言うと絵画と言って良いものもある。それでも、それでも、それでも、全部建築の中に入る活動のアウトプットなのだ。そして驚く事に、そのどれもが何らかの社会の問題を解決しようとしている点で共通している。あるものは部分的に、そしてあるものは全地球や人類全てに共通する問題を。
ちなみに、2021年9月12日の記事『ピョートル・スミエコーウィッチュ「ザ・ムーン・キャチャー」ピョートル・スミエコーウィッチュ「ザ・ムーン・キャチャー」』(クリック)もPresident's Modelsの受賞作だ。
改めて建築と言うのは幅広くて面白いと感じる。そして、全く平凡な表現をしてしまうが、凄い。
先日、ネットである事を検索していたところ、たまたま誰かに意見を求める掲示板のようなサイトがあった。そこに書かれていた相談は、「家を建てようと考えていて、住宅メーカーが提示した間取に自分たちで手を加えてみたけれどもこの間取で問題無いだろうか?」と言うものだった。質問とともに簡単な平面図が載せられていた。多くの経験者といくらかの設計者がコメントを寄せていて、どれも質問者にとって有用なコメントと思えた。トイレの位置が遠い、台所の収納はそんなに必要ない、通気のためにここに窓を設けた方が良い、リビングが家の中央寄りになっているので暗いだろう、等々。
と、またPresident's Medalsのサイトに視線を戻す。
この間取の問題と、President's Medalsの作品とどう繋がっているのだろう? President's Medalsのインスタレーション的作品まで行かなくても、実際の世の中には多くの建築家がデザインしたちょっと面白い、ちょっと以上に面白い家が多くある。正確にはあるらしい。それらは雑誌や書籍やネットで紹介されるけれども街を歩いていて行き当たる事が少ないから「らしい」で良いと思う。多少実感に欠ける。それらを見るとあの間取とは違った考え方でデザインされているのがわかる。とても個性的だし、物によっては本当に家なのか?と感じる物もある。けれども、それらはちゃんと人が住める家として成立している。個人の欲望を満たし個人の美意識に訴える。そして何らかの生活上の問題を解決してもいる。President's Medalsの作品と間取の中間にいると思われる。
もう1つ別の視点。もし、自分が建てるならどうするだろう?
いや、そこはもちろん、何か心を動かされる建築をデザインするさ、と言いたいところだが、それは本当なのか? 家には窓が必要だよね。では窓はどんな窓でどこに付ける? 通気、換気、そして採光を考える。広い窓の方が気持ち良いよ。南向きだよな。床はそうだな、フローリングで壁の色は明るく白かな? キッチンはリビングに近い場所か、それとも対面にしてダイニング兼用で...と考えて行くとどうだろう? もちろん、そうやってどんどん頭の中をいっぱいにしていけば住宅メーカーさんが持ってきてくれる間取ってものを検討して、ここはちょっと変えたいなと言い出すはずだ。これが普通。
それで、自分の立ち位置をどこに置くかと考える。
あれはもう2ヶ月近く前になるけれど、スターハウスの未来にある暮らしに応募(クリック)した時に感じた事なのだけれど、やはり実施の可能性があるデザインであると実現性を考えないといけないのでどうしても間取のような考え方に偏ってきてしまう。そして提案は1戸分でなくて複数戸になればなおさらで、あまりに個性的にするわけにはいかないと。寝室とバスルームの位置関係、子供のいる家庭が入った場合、和室は必要か?、個々の部屋は狭くても部屋数は多めでないといけないのでは?
それをどんどん考えて行くとオリジナルの設計者が考えて採用されたように標準設計戻ってしまう。そもそもそれが問題だったにも関わらず。
この問題、考えれば考えるほど多岐に渡る議論が必要だ。けれどもこれを議論のネタにするつもりはない。どちらかと、言うと自分が考える中でいくつかの立場を行き来する事ができて、本当に自分にとって(他人の場合もある)何が良いか、どのレイヤーの自由度を優先するかを特定の立場に偏らずにいて考えられるようにしたい。
窓? 自分にとってこの窓必要? 床って平らな方が良いのか? トイレにドア付ける? 玄関は要らないか? 車はベッドの横に停めようか?
自由を求めるには自分も自由な場所に居られないといけないと思うが、自分自身を自分で縛ってしまっている不自由さの方をより多く感じてしまう。普通、建築をやっている人はそう言う、自分自身の事など言わないのだろうが。
2つめの作品の提出をした。今回は起案から提出までに3日間だけ。作り物はあるが実施設計ではないので図面無しで済ませた。(前回提出したものは本当にガラスだけなので作り物は無しだった。)
上の絵がJamboard上の検討画面。本当はもっと絵があったが消しながらやったので残っているものは少ない。と言ってもラフスケッチからあまり変更が無いので初期パネルを残す意味も無いが。
このコンペ、一応建築のコンペなのだからもう少し建築的な感じの提案にしたらどうか?と考えないでもないが、何しろお題が「野生のガラス」と言うようなどうしても禅問答なのでそれに対応する案を出して良い...と言うよりは出すべきなのじゃないかと思う。だいたい巨匠と言われる建築家のスケッチもそれ単体で見たら何だこりゃ!的なものなわけだし。それに比べればこれでも「確かに作ろうと思えば作れるよね」レベルだと思うからかなりマシのはず。寸法は書いてないけれども。
寸法は書かないけれども、建築として何をやっているかと言うと、それは「社会問題の解決への提案」だ。建物を作るだけが建築の仕事ではないと考えるので。
我々は使用し終わったガラス(今回は「コントロールからこぼれ落ちるガラス」)を廃棄と言う名目で見えない場所に「隠している」。そしてそれ以上その物の事を考えず、忘れてしまう事で生活を成り立たせている。忘れられたその物は死体としてずっとそこに置かれたままとなる。その理由は、最近はリサイクルや持続可能な社会と言われるが、「それするにはお金がかかるんだよ」と言う各論によってさらに放って置かれるかもしれない。つまり、資本主義の論理にはなかなか抗えないのだ。
と言うわけで、やる事は簡単だ。活きられる場所に置いてやろう、と言う事。
とは言え、それはどこだ?と考えなければいけない。そう、誰かの邪魔になってはいけないわけだし。そこで思いついたのは、頭の上。人が歩く上の空間はほとんど誰も使っていない。上を見れば空が見える。そこに置こう。そうすれば完璧ではないが強い雨は弱まり、強い太陽光は柔らかになるだろう。それで彼らはずっと生きていける。
提出日は2021年10月3日。この記事は提出期限の後に予約投稿で公開。
スタディ08でどうも複雑すぎてわかり難いと感じたので、スタディ09以降全く変えてみた。1枚で短編小説を読んだ感じになるようにしたかった。最上段にセリフを1つ入れてそれが全てを説明している風になっている。(そんな小さな文字を読んでもらえるか?と言う疑問はある。)細かい調整をしながら中央奥に人物を入れ、手前の自分との関係を強調している。やはり空間から何かを感じても最終的には人と人の関係に影響するものだろうと考えたから。
大富豪マーク・ローリー氏、総工費4000億ドルの巨大都市建設計画を発表 - CNN (クリック)
先日(2021年9月28日)に「出しゃばり過ぎない「塔」の提案に感銘」と言う記事を書いたが、ちょうど「大富豪マーク・ローリー氏の巨大都市建設計画」で本当に都市を作る計画に関する記事が出てきてこちらはどうなのか?と気になって読んでみた。
都市の名称は「テローサ」。記事で真っ先に注目されているのはやはり技術の側面だ。「環境に配慮した建築、持続可能なエネルギー生産、さらに渇水にも耐えうるという水道システム」、「超高層ビル、エクイティズムタワーは、高架貯水槽、エアロポニックス(空中栽培)農園、生産した電気の共有・分配が可能な太陽光発電屋根が装備され、レイアウトプランは「自宅から15分以内で職場、学校、各種公共施設に行ける」となっている。
そしてその技術よりも特に注目すべきポイントは、「透明性のある管理・運営と『社会の新しいモデル』。住民らが意思決定や予算編成に参加できる。」、「世界で最もオープンで、最も公正で、最も包括的な都市」と言うところ。
なぜこの点が技術よりも注目すべき点になっているかと言うと、マーク・ローリー氏の真の目的は「資本主義の重大な欠陥を是正し、より公平で持続可能な未来を築く」事となっているからだ。もし本当に可能であれば、まさに人間としての理想郷に近いものができるかもしれない。
もし「できれば」だけれども。
短い記事の文章から判断してしまっては良くないが、第一段階で5万人規模の都市、40年後に500万人に達する巨大な都市になるとして、そこに住み着く住民の多くがオープンで公正な都市の何らかの意思決定に本当に参加するものだろうか?
どうしてそうした懸念が生じるかと言うと、そもそも都市とは何かと言うところから来る。都市と言うと一般に多くの先進機能が集中しそれを目当てに多くの人が流入する場所である。平たく言えばカッコイイ場所だ。だから多種多様な人々がそこで出会い、そしてさらに何か素晴らしいものが生み出される。それは一面として正しい。けれども、それとは逆の面の方が実は大きいと考える。つまり、人が集まってその場所を運営する事によって何もしない、何も考えないでそこに居る人間が相当に多くなると言う事だ。なぜならば、便利だから。所得から一定割合の税金を支払う事ができ、ある程度の家賃や公共料金と生きるために必要なコストを負担できさえすれば郊外や農村に住むよりは相当に便利だ。ただそこに生きるためだけならば何も積極性は要らない。街が便利であればあるほど自分自身で考える必要すら無くなる。それが都市であると言うのも別の一面として正しいはずだ。
500万人が意思決定に参加するとしたら、それは本当に革命的であると思われる。もちろん全く方法が無いとは思わないが、それを実現するには既に言われているスマートシティの構想を相当に超えた何かが必要になると考える。
追ってそうした事に関する報道や資料が出てくる事を切に望みます。
(仮称)ふくしま農業人材育成センター施設設計プロポで、辺見設計・C+A共同企業体が最優秀者に選定。技術提案書も公開(クリック)
これは個人で参加できないコンペのプロポーザルとその結果。5者の提案書とその講評が全てpdfで公開されていたので読ませていただいた。ちょっと考えさせられるものがある。
まず上から提案書を1つづつ見ていった。
最優秀となった辺見設計・C+Aさんの提案タイトルは「先人の開拓スピリットを未来へつなぎ、新時代のリーダーを生み出すクリエイティブ・プラットフォーム」、再生建築研究所・八光建設さんのタイトルは「農業の今と未来をつなぐ校舎--おおらかな風景とあたらしい文化をつなぐ小さな小屋--」このあたり、志がとても高いのがわかる。それ以外はもう少し現実的なタイトルになっているけれども、内容を読ませていただくと同じようにやはり志はとても高い。どれも素晴らしい提案になっている。
提案課題は5つ。
「野生のガラス」(クリック)コンペの応募締め切りが10月4日となっているが、突然、もう1案出したくなった。時間が無いので急ぐ。幸いにも明日、明後日は土日で休暇だ。時間がある。このコンペは実施コンペではないので詳細設計は無くて構わないはず。急げばできるかもしれない。
人の管理から零れ落ちたガラスたちと言えば廃棄される色ガラス。リサイクルされるようになってはきているが未だに廃棄処分が多い。分別が難しいからだ。そして廃棄されて地面の上に置かれているとそのままずっとそこにあり、腐らない、風化しない、土には返らないまま死体としてそこにずっとある。
アイデアは単純だ。置き場所を変えるだけだ。あまり使われる事のないどこかにこれを移動してやるだけで生き返ると言う事はないだろうか?と言うもの。
あった、あった、その場所が。
これ以後は提出できたら公開予定。急ごう。
スモールハウスコンペティション2021 応募ページ(クリック)
コンテナハウスの商品化を前提としたコンペだそうです。
(以下の概要は間違いがあるかもしれないので公式ページで確認してください。)
募集内容
提出物
締切:2021年10月31日 (日)
賞
The Sponge: Skyscraper To Collect Rainwater For Drinking And Farming In Africa (クリック)
eVoloのスカイスクレイパーコンペティション2021の奨励賞の作品。これは他の作品とは異なるとても興味深い作品だった。建築と言う作業は「インターフェイス作り」と定義する場合もある。そのインターフェイスが何と何のインターフェイスかと言うのはあまりはっきりとは言われない。建物と人と言うし、人と人と言うのも一般的だ。建物と人であればそれは作る事が重要で、作りてのエゴのように感じられる事もある。人と人は言うまでもなく、異質の人どうしが出会って何かが起こるような事。よくある。この作品は生活とその具体的手段のインターフェイスだろうか? 自分としてはこの作品のようなインターフェイスが理想的と考えるのだが.. どうだろう?
昨日、塔の作り方を考えていたが、逆にした方が良いものもあるのではないかと思いついた。塔は上方に高く聳えるものだが、地面より下方に作られて上から覗き込まれるものだ。それが国会議事堂。
国会開催時には傍聴が可能だが、30分前に行って傍聴券をもらう必要がある。委員会は議員を通じて許可をもらわないと傍聴できない。傍聴では拍手や声をあげる事はできない。国会に入るには一応ドレスコードがあるらしい。(明確でない。)ただ、コートは脱がないといけない。(テロ対策と思われる。)
と言うわけで、適当に行って上から覗くようにしたら良いのではないか?と言うもの。
現在の議事堂は、昭和11年(1936)に帝国議会議事堂として竣工。設計は一般公募(コンペ)され、118応募の中から宮内省技官、渡邊福三(1870年(明治3年)7月11日 - 1920年(大正9年)3月19日スペイン風邪で亡くなる)の案が採用された。案は「ギリシア様式ルネサンス風」だとの事。工期は17年を要している。帝国議会の議事堂だけあって"帝都の威信"を体現した重厚感ある建築。つまりは欧米の議事堂に負けない立派さを求めてデザインされたと考えられる。
とすれば現在のような民主主義そのものを表現したデザインとは言い難い。(帝国議会が民主主義と反対の体制であったと言うのではない。一応帝国議会の中でも徐々に民主化への動きが進んでいた事は事実。戦時中だけの事を考えてもまずい。議事堂建設はそれ以前の時代であるから。)
そのあたりを踏まえて考え、そして今の政治の在り様も考えて次に作るとしたらどうだろう?と言うもの。(笑って!)
塔の作り方を考えてみた。
塔と言う物は、横幅や奥行きよりも高さの方が何倍も大きい。だから高く空に向かってそびえ立つ形状になっている。
そして出来たのが上図の右側である。下段には多くの入口があり多くの人々に開かれている。そして中央付近で混じり合う。上方にはヒエラルキーに従わないいくつかの部分があり、必要に応じて、または好みに応じてどこかに入る事ができる。最上部になる部分はいくつかあってそこに優劣は無い。また最上部に人が立ち、下を見下ろす事はない。