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2021/10/13

隈研吾 批判するのは簡単だけれど

 今朝Twitterを見ていたところ、隈研吾氏の「ユゥーアップ-四ツ谷」が話題に上っており、否定的な意見のコメントが長く連なっていた。建築関係者や建築を学ぶ学生のコメントはほとんど無いようだった。

写真を見れば確かにいろいろ言われるのはわかる。

Twitter(クリック)を検索すると出てくる。

けれども、建築の立場からは良い悪いを別として違うレイヤーで見なければならないだろう。良い悪いは結果であって、悪いと判断される結果も十分にあり得る。それはそれでデザイナー本人が受けるべきものだから。なのでそちらはご本人に任せるしかない。

しかしながら、建築で考えるべきはその奥にある意味の方だ。なぜこれが成立すると考えられて実際に施工される事になるのかと言う事だ。

もう1つ最近似たような批判を受けている隈研吾氏の作品がある。
これは日経XTECH(クリック)さんの記事から。
こちらも四谷のマンションに似ていて、木材の裏側に黒っぽい実際のトイレが見える。そこに単に木材がランダムに張り付いているだけに見える。


隈研吾氏は世界中でたくさんの建物をデザインして実際に建っている。それらをよく見ても特定の傾向があるのか、それとも無いのかがわかり難い。共通点は素材の質感を生かす事や特徴的、または伝統的な構造を用いている事位のように見える。理解し難い。

ただ、どれも隈研吾氏1人の頭から出てきたもののはずなので何かあるはずだと考える。そこでもう1つ思うのは、こちらの理解の仕方の方に問題があるのではないかと言う事だ。なぜそう考えたかと言うと、建築の専門家の批判、建築を学んだ人の批判の基になっているのがどれも「モダニズム」だと気付いたからだ。

既にモダニズムは過去のものであって、有名建築家の作品はそれを超えて別の地平に達していると考えるが、形状に対する批評ではやはり未だにモダニズムの占める位置が大きいように見受けられるし、モダニズムを超えて次に行った建築作品もその考えの基がモダニズムではないかな?と思う事が多い。特に「構造と見た目が矛盾しない」事を目指し、それを良しとする傾向はモダニズムから来ているだろう。

そうした目で見ると隈研吾氏の作品はダメに見える。木材や石材の質感が表に現れているがその中身とは無関係にそこにある感が否めない。つまりデコレーションであって表面は中身と全く別に、もしくは表面だけデザインしている。隈研吾氏の作品の中には構造と見た目がリンクしているものもあるので常時そうしているのではない。つまり、どちらでも構わないと考えているのだと想像できる。

その意味では自由なのかも知れない。

自由の意味はモダニズムがその前の時代の建築から自由になったように、隈研吾氏はモダニズムからも、自由になったとも思える。(いや、氏はもともとポストモダンで出てきているのでモダニズム的思考や批判から自由にと考えるべきかだろう。)モダニズムは地上階の構成からその上の階の構成を自由にした。柱から壁を自由にした。いろいろ自由にやって良いとした。そしてポストモダンの時代にはさらに柱は垂直でなくとも良いし壁は平面でなくても構わないとさらに自由度を増した。そうした全てを自由にして良いとの考え方に立てば、表面だけ良いようにデザインして中身は別でも良いよね、と、それも新たに加えられた自由度と言えない事もない。

思えば隈研吾氏の名前が世に広く知れたあのM2も何の脈絡もない複数のデザインが混合したようなポストモダン建築で似たような批判を浴びていた。そう考えればやはりその自由度の高さを示すに過ぎない、もしくは反骨精神を表すに過ぎないのではないだろうか。

そうすると、良い悪いは別として、「この人アホや!」と言うような批判が隈研吾氏への誉め言葉になるのだろう。もしそうだとすれば、氏ほどの自由度は批判する側、そして自分自身にあり得るのだろうか?と見直してみるべきだ。

2021/09/28

出しゃばり過ぎない「塔」の提案に感銘

 The Sponge: Skyscraper To Collect Rainwater For Drinking And Farming In Africa (クリック)

eVoloのスカイスクレイパーコンペティション2021の奨励賞の作品。これは他の作品とは異なるとても興味深い作品だった。

スカイスクレイパーのコンペなので塔を提案しなければならない。塔となると建物としての塔単体の建築案が多いが、これもそうであって、そうでもない。そうでない部分は塔を中心にした生活の場を含んだ提案になっているところ。そうである部分は提案しているのが塔の部分だけであるところ。矛盾した言い方かもしれないが、提案は、あえて塔を提供するだけに留めている。つまり都市計画ではない。

やり方としてはそこにある村の要素を分解して塔にまとめているだけだ。追加したのは塔の中央にある「水」のみ。生活の基本てきやり方は何も変えていない。塔があるからメンテナンス用にマネジメントは必要だが、行政の機能は追加していない。壮大な提案ではあるが出しゃばり過ぎる事に警戒している。


塔を建てるとどうしても無意識に都市のようなものを考えてしまう。そこを中心に何かが行われる。中心ができるとそこに人が集まる事もあってマネジメントが必要になる。マネジメントはつまり行政で、行政があるとそのコストを賄うために税金が必要だ。税金があり、すべき項目が多くなると配分を考えなければならず、代表者が選出されたり首長が出てきたりする。そうなると生活もこれまでと全く変わってしまう可能性があり、権力が集中し人はそれに従う事を要求されるかもしれない。

この案はそれを全く要求していないどころか、故意に避けている。素晴らしい作品だと思う。この作品で優勝できないとは!


建築と言う作業は「インターフェイス作り」と定義する場合もある。そのインターフェイスが何と何のインターフェイスかと言うのはあまりはっきりとは言われない。建物と人と言うし、人と人と言うのも一般的だ。建物と人であればそれは作る事が重要で、作りてのエゴのように感じられる事もある。人と人は言うまでもなく、異質の人どうしが出会って何かが起こるような事。よくある。この作品は生活とその具体的手段のインターフェイスだろうか? 自分としてはこの作品のようなインターフェイスが理想的と考えるのだが.. どうだろう?


2021/09/21

昭和の家 ガシャガシャか静かか?

  今津康夫 / ninkipen!による、奈良の築50年の住宅を改修した、照明ブランドのオフィス兼ショールーム「NEW LIGHT POTTERY」

たまたまFacebookでarchitecturephotoさんのこの記事(2018年)が回ってきたので見せていただいた。この最初の写真が面白いなあと思ったからだ。この錆びたトタンの外壁がそのまま使われている。普通リノベーションする時にここまで錆びてしまえば外して別の外壁材に交換、と簡単に考えてしまうところ、それを活かして使っている。それだけでこの記事、ちょっと読んでみたいと思うわけ。

そうしたら中身はもっと面白かった。たぶん、ショールームに入ったところの床は基礎の高さまで下げて段差を無くしているのかな?(それとも元から土間だったのか?そんな風には見えないが。) それと、その土間っぽいところまで置く側から伸びていたのではないかと思われる梁を切ってしまって天井を屋根まで高くしているようだ。元は壁が付いていた柱は壁を取り除いてすっきり大きな空間にしたせいでポツリとそこに立っている風になった。いろいろな拘束から解き放って日本家屋が近代建築になっている。そこまでしても外形は追加されたトイレの部分しか変わっていない。なかなか面白い。

ちょっと違和感があるのは庇の裏側にエアコンのダクトやたぶん補強か何かを収めた部分が四角く囲われていて重い感じがするところ。でも、本当に面白い。


ちょっと話の方向は変わるのだけれど、最近の建築の傾向として出来上がりが「静か」だなあと思う。これはショールームだからもちろん他のものとは違うし演出としては狙いだろう。まあ、それは置いておいて、多くが「静か」だなと感じる。ちょっと前には定義のあいまいな空間のようなものが作られていてそこで異質なものどうしがぶつかり合う的なものがけっこうあったと思ったけれども、今はそう言うのは流行らないのだろう。建築を離れて昭和後期を思えばあの時代はもっとガシャガシャで普通にしていてもぶつかり合っていたと感じるのでずいぶんと時代は変わったなと、この作品を見てそう思った。

現代において本当には何が良いのか、と言う問いに対しては議論の余地があるのだろうけれど、さて、もし自分自身で自分の空間として作る上げるとしたらガシャガシャなのか、静かを選ぶのか?


2021/09/12

ピョートル・スミエコーウィッチュ「ザ・ムーン・キャチャー」

 ピョートル・スミエコーウィッチュによる「ザ・ムーン・キャッチャー」 

ADFのサイトにこれが出ていた。これはかなり気になる。

プロジェクトの説明(ADFより)の概略

ロンドンの現代の問題の根底にはメンタルヘルスの問題が潜んでいる。それは主にソーシャルメディアテクノロジーやポストヒューマニズムなどに起因している。16〜24歳の人々の40%はソーシャルメディアプラットフォームに友達が多いにも関わらず孤独で孤立を感じている。

ムーンキャッチャーは、若者が自然の美しさとつながり、エピクロス主義によって提供される身体とマインドの喜びを得られる空間を提案する。その空間では、日中は宇宙論とメンタルヘルスの知識を広げ、クレーターのある都会のビーチで羽を広げることができ、また夕暮れ時には”最新の流行”となった月光浴を行い、夜明けの最初の光とともにホテルの個室へと戻るまで月のサイクルから喜びを迎えることができる。
「可能性は無限なのか?」

読んでもよくわからない。

画像を見てもよくわからない。何か取り残された気持ちになる。
しかしながら、日本の建築の禅問答が実はヨーロッパにもあるのかもしれない。これは今後研究していこう。


ところで、「気になる」と書いた理由だけれども、これは全く個人的な思いから来る事であって、作品自体に対して言っているのではない。そしてそれはいつも感じている事でもある。

この作品の画像を見せられた時にまず、「理解できない」と感じた。今の自分には理解できない。この先理解できる時期が来るかもしれないが、とりあえず今はできない。その次に思うのは、こんな事。見た目から言えば通常誰もが考えられるような図面でもパースでもイラストでも無いのに、作者(達)はこれを堂々と世に出している。そしてそれでもこれは建築の提案だと言っている。しかも、それを建築の作品だとして評価する人がたくさんいる。

建物の隣に巨大な人間が描かれている。風景の中に抽象的な図が複数描かれている。平面上のアート作品として成立しそうでも建築とどう関係があるのかが解釈し難い。それでもそこには建築としての意味があり、たぶんきちんと解説を聞くか読めばなるほどとなるかもしれない。

ここで、注意を自分の方に戻してくる。自分もある程度は奇想天外なイラスト的なものは描けるだろう。(多分多くの人もそれができると想像するが。) けれども、建築の作品を描こうとしてそうした、他人に理解し難い何かを提案として出せるだろうか? そして一番重要なのは、自分はこうした作品を作る時に「自分自身に制限を加えていないか?」と言う点だ。要件を満足する必要はある。コンテキストを考えてやる必要はある。コストも構造ももちろん。でも、世の中技術は発達しているし、これまで不可能と思えた事が実現してきている。それは置いておいても、もっとやって構わないのに何故か自分自身の中で止めているものがあるのではないか? そこが「気になる」理由だ。

この時代、どんな建築物が実現してもどんな奇抜な作品が出てきても驚くことはそう無いと思う。