ピョートル・スミエコーウィッチュによる「ザ・ムーン・キャッチャー」
ADFのサイトにこれが出ていた。これはかなり気になる。
プロジェクトの説明(ADFより)の概略
ロンドンの現代の問題の根底にはメンタルヘルスの問題が潜んでいる。それは主にソーシャルメディアテクノロジーやポストヒューマニズムなどに起因している。16〜24歳の人々の40%はソーシャルメディアプラットフォームに友達が多いにも関わらず孤独で孤立を感じている。
ムーンキャッチャーは、若者が自然の美しさとつながり、エピクロス主義によって提供される身体とマインドの喜びを得られる空間を提案する。その空間では、日中は宇宙論とメンタルヘルスの知識を広げ、クレーターのある都会のビーチで羽を広げることができ、また夕暮れ時には”最新の流行”となった月光浴を行い、夜明けの最初の光とともにホテルの個室へと戻るまで月のサイクルから喜びを迎えることができる。
「可能性は無限なのか?」
読んでもよくわからない。
画像を見てもよくわからない。何か取り残された気持ちになる。
しかしながら、日本の建築の禅問答が実はヨーロッパにもあるのかもしれない。これは今後研究していこう。
ところで、「気になる」と書いた理由だけれども、これは全く個人的な思いから来る事であって、作品自体に対して言っているのではない。そしてそれはいつも感じている事でもある。
この作品の画像を見せられた時にまず、「理解できない」と感じた。今の自分には理解できない。この先理解できる時期が来るかもしれないが、とりあえず今はできない。その次に思うのは、こんな事。見た目から言えば通常誰もが考えられるような図面でもパースでもイラストでも無いのに、作者(達)はこれを堂々と世に出している。そしてそれでもこれは建築の提案だと言っている。しかも、それを建築の作品だとして評価する人がたくさんいる。
建物の隣に巨大な人間が描かれている。風景の中に抽象的な図が複数描かれている。平面上のアート作品として成立しそうでも建築とどう関係があるのかが解釈し難い。それでもそこには建築としての意味があり、たぶんきちんと解説を聞くか読めばなるほどとなるかもしれない。
ここで、注意を自分の方に戻してくる。自分もある程度は奇想天外なイラスト的なものは描けるだろう。(多分多くの人もそれができると想像するが。) けれども、建築の作品を描こうとしてそうした、他人に理解し難い何かを提案として出せるだろうか? そして一番重要なのは、自分はこうした作品を作る時に「自分自身に制限を加えていないか?」と言う点だ。要件を満足する必要はある。コンテキストを考えてやる必要はある。コストも構造ももちろん。でも、世の中技術は発達しているし、これまで不可能と思えた事が実現してきている。それは置いておいても、もっとやって構わないのに何故か自分自身の中で止めているものがあるのではないか? そこが「気になる」理由だ。
この時代、どんな建築物が実現してもどんな奇抜な作品が出てきても驚くことはそう無いと思う。
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