2021/11/22

暗く、小魚とともに過ごすだけの空間

建築の作品や提案を見ていると、作品そのものに加えてそれを作成した人が健康で健全なのだと感じるものが多い。そして良い作品に対する評価に気持ち良い空間と言う事も多い。陰と陽があるとすれば、世に出てきて評価される作品はほとんどが「陽」の側にあるように見える。中には「陰」を扱っているものもあるが、陽の側にいる人が陰を陽に引き上げる方法としてのものだったりする。

雑誌やネットに掲載される広告の写真の中に人の多くが前歯を見せて笑っている。その感じに似ている。見た目にもネガティブに感じられるもの、そんなものは作られなくて当然なのかもしれない。しかしながら、現実の世界には孤独な人、世の中や社会に馴染めない人は多い。馴染めて普通に生きているように見えても心の中で違和感を感じている人も多い。

 

「大勢に囲まれてるのに……すごく寂しい」、解消法は 5万5000人を調査 (BBC)

'I'm surrounded by people - but I feel so lonely' (BBC)


そうした状況はネガティブで改善されなければならないと言うのは普通の思考かもしれない。そんな状態の中に長くとどまる事で健康を害し寿命を縮めてしまうとの報告も目にする。

逆に孤独のようなものから感じられる寂しさやネガティブな感情は自分の心の中にだけある幻想であってそれは事実ではないと言う人もいる。その場合には気持ちの持ち様を指導される。つまり修行のような事だ。それとてネガティブな感情を持つ事を否定する側からの発言だろう。修行を終えて超越してしまったか悟ってしまった側からのアドバイスだ。


心が強い人は「孤独は妄想」と知っている (東洋経済オンライン)


ともかく、何かサジェスチョンしようとか提案すると言う行為はどうしても陽の側に偏る。世の中がポジティブなものを志向している限りにおいて、これは仕方ないのかもしれない。

ただ、本当にその提案で救われる事があるのだろうか?もちろんその答えは有るになるだろう。ただ、次から次へと出てくるネガティブな感情に対して追い付く事は無いのかもしれない。


美術と言う分野では、それは特に作家個人の思いや感情を載せてかまわないし、それが良いとされる。ネガティブ?、大歓迎だよ、と言う事になっているように見える。肯定され有難がられてすらいる。音楽?、もちろん大歓迎だろう。悲しくて悲しくてどうにもならず、何の解決策も無くエンディングを迎える歌は山ほどある。小説にもある。悲嘆に暮れて終わる作品や、嘆くだけ嘆いて終わり、一体何で作者のそんな感情に最後まで付き合わされなければならないのか!と言う作品がある。


昔、インドネシアに住んだ時に、その地域出身ではないがそこに住み続けている人の家にお邪魔した。その地域出身でないと言う事で目立たないように暮らしていた。言われなければそこにその人たちが住んでいる事さえわからなかった。

その人の家に招かれて石造りの狭い入口のドアを入ると、暗かった。真っ暗と言って良いほどに暗かった。その先に何があるのかがわからなかった。光が一つも無かったので目が慣れる事も困難だった。ドアを開けた事によって射し込んだ細い光が床にぼんやりと反射して床の状態だけはわかるようになった。床には片足を載せられるだけの大きさの飛び石が2つほど置かれていた。飛び石の下にはなんと、水が張られていた。よく見ると小さな魚が泳いでいる。

飛び石の先の部屋に案内されたが何も見えない。どうも小部屋のようだ。主人が小さな灯りを点けてくれたので確かに小部屋だと確認できた。家には他にも部屋はありそうだったが結局何も見えなかった。貧乏で電気が来ていないのではない。静かな人柄だったけれども修行僧のような生活を志向しているのでもないらしかった。普通の人だ。今となってはその家のインパクトが強すぎたせいか、そこで何を話したのかが思い出せない。

明るくなく、本を読んだり食事をするにも不自由でただ暗く狭い部屋。であるから見事とも気持ち良いとも言えないそんな部屋で彼はずっと過ごしていたのだった。小さな魚とともに。あの家は少し極端な例だったけれども、インドネシアの事をいくらか知っている人であれば心にわだかまるドヨドヨとした感情の存在、神が存在しても積極的に介入して解決してはくれないその状況、そして普通にそれとともに生きる人たちがいる事はわかってもらえるだろうと想像する。


もちろん気持ち良い空間を否定するものではないが、その反対のネガティブを許すものの存在。そは実際には必要なものなのではないかと感じている。それは解決策としてそこにあるのではなくて、ただそうした事の存在を肯定するためだけにあると言う意味で。

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