街を歩くと種々雑多な音が聞こえる。それは自ら聞きたい音ではないのでノイズとして認識される。人の歩く音などはそう大きくはないが人が多いとそれでもかなりのものになる。カツカツとかパタパタとか、一つ一つが明瞭でなく擬声語にもならない音が集団になって入ってくる。そこにオートバイの通り過ぎる音が時々混じり、後ろから調理の音が聞こえてきたり風が吹いて木が揺れたりする。
それらはどれも自分にとって要らない音なのだけれども、聞いているとなぜか安心するような感覚がある。不思議だ。
これは音ばかりではないかも知れない。例えば木を植える。街はコンクリートやガラスや木材でピシッとした直線、直角、たまには弧で構成されている。人が作るにはそれが簡単だ。木は人が植えても建物のように直接にも直角にも平面にもならない。木は時々葉を落として地面をランダムなマダラ模様にする。どう見ても視覚上のノイズだ。
部屋に小物を置く人がいる。お皿、人形、料理が好きなら調理器具が吊るされるし、模型や花、本など様々な物が置かれる。どれもサイズがピシッと同じではないし、色もそれぞれ。これも言ってみればノイズだろう。
音に話を戻すと、音楽を制作する時に音を作るけれど、その時にもノイズを混ぜている。ギター演奏でも音符の音とは別の弦をこするキュッと言うような音が入る。それがまた良かったりする。
そう思うと、自分でコントロールできないノイズは自分にとって良いと感じるものの1つかも知れない。木材にも木目や色むらがありそれは味があると言って好まれるが、それもノイズだ。建築ではボイドと言う言葉があって、建築は場所を全て機能で埋め尽くさず、ポンっと何も無いポイントを作ったりする。またはできてしまう事を喜んだりもする。ボイドは多くの場合ランダムに配置されたりする。まるでデザインしたのでなくて、できてしまった風にその意図を隠すように。それもある意味ノイズを混ぜていると言えないか?
先日、間取について書いたけれど、間取志向では一般に、可能な限り床面積に無駄を作らないようにする。つまりこちらはノイズを排除する考え方だろう。
何が良いか悪いかと言うつもりは無くて、自分の目指す方向はこのノイズの方だなと思う。ノイズ、これを追求して行くべきなのだろうと考える。
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