世の中には多くの人がいて、その多くの人々の大半がどこかに所属している。学校でも会社でもその他の組織やそして家庭に。あたかもそこに適合しているかのように所属していてまるで世界はそうした関係で埋め尽くされているかのようだ。
けれども実際には完全に埋め尽くされているわけではなくて、隙間が多い。完璧に埋め尽くされていると思っているのなら単に隙間の部分を見ないふりをしているだけだ。実際の世界は思うより隙間だらけでスカスカなのじゃないだろうか?
スカスカにしない方法は「割る」だ。四角い家を間取りと言う道具で割る。割れば隙間はできない。上手く割るために人は考える。その際に割られた方の都合は考える必要はない。なぜなら割る方が所有者だから。しかしながら人は自分の都合によってそこを立ち去るだろう。残された割られた者達を集めて聞いてみる。君たちは本当にそれで良かったのかと。
誰も声を出して答えはしない。なぜなら、割られる方には選択肢が無かったからだ。
充実した人生を送っていると思える人は何かに適合できているだろう。中には適合できないでいる者もいる。数百人いる会社に適合して仕事をしていればそれは誇らしいと感じる者もいる。数十人や数人の組織やグループでもそうだろう。中にはたった2人、つまり自分以外にもう1人であってもダメな者もいる。そうした場合、どこか狭い隙間にいるしかない。孤独な者どうし集まれば良いじゃないか、と言うのは通用しない。それが孤独と言うものだから。
建築ではよく隙間を使って何かをするような提案がある。学生の作品に多い。とは言え、実現の可能性は低いと思われるが。通常、隙間として捉えられる場所は組織化されていない。(提案にあるものは道と言う扱いであるものが多いのでその意味では既に組織化されていて観世なフリーではない。それが実現不可能な理由だ。) 組織化されていない場所を公にプログラムの一部に組み込んで組織化する、または組織化のグレードを上げると言うのは、それなりのメリットがあればそれはそれで肯定されて良いと考える。
ただ、寂しい者の視点から見れば、逆であって欲しいと考える。組織化して実際のメリットや収益を得る場所は他にいくらもある。そして特にクリエイティブな思考が無くともそんな物はいくらでも作る事ができる。逆に何も組織化されない隙間と言うのは作ろうとして作る事ができないものかもしれない。公園でもない、小径でもない、ただの場所だ。
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