コンペの情報を検索していて気付くのはあまりにも多く「未来の」と言う言葉が使われている事だ。先日のスターハウスのコンペも「未来にある暮らし」と未来が使われていた。
冷静に考えて、そこで使われる未来が表すものは何の事だろう?
言語上の未来は今日から見た明日も未来であるし、1年後や10年後、そして100年後もどれも未来だ。しかしながら建築で未来となると少し限定される。なぜなら、建築物の寿命はどんなに立派な建物でも概して50年持てば良い方であるし、人の生活のリズムを考えれば20年かそこら経つうちに必ず区切りが来る。最近ではテクノロジーの進歩が速いために他人とのコミュニケーションの在り方や生活スタイルまで5年以内に変わる事さえある。
それを思いつつ未来の建築を模索するとすれば、さて、何をどうすれば良いのか?どこを前提条件にしてデザインすればよいのだろうか?どこまでの時間を考えれば良いのか?そしてさらに大きな問題は、今現在から想像不可能な将来の時間の中で起こる多くの変化に対して自らの建築と言うものはそれにどう対応する事を想定できるのかと言う事だ。
携帯電話が世に出た当時、多くの人は街角でどこでも電話してその場にいない人と話をしている姿はメンタリティに合わず、携帯電話は普及しないだろうと言った。普及するにしても高級車を乗り回すビジネスパーソンが使う程度だろうとはっきり言ったし、その意見を多くの人は支持した。スマートフォンが出た時には携帯電話ほどではないがやはり抵抗はあった。結果は知る通りであるけれども、要は多くの人はそれが大きな変化の兆しだとは想像できないのだ。
そして今、何が言われているかと言うと、もちろんそれは新型コロナの影響で家で仕事をするようになった、プラベートな空間だったはずの空間にそうでないものが入ってきてと言う話。そしてその為に建築でできる事は何かと言う話でもある。しかし、これは未来予測かと言うと、それは半分程度の事で、半分は突然発生した状況に修正して合わせると言うものだ。予想側の半分はそれがこれからも、つまりコロナが心配無くなったとしても続くのではないかと言うところになる。普通の意味での未来予想とは言い難い。
そこから先に対する答えはほとんど無い。できないだろう。
突然現れたコロナと違い事態が線形に進む変化で有ればそれでもまだマシで、例えば国内木材が余り始めた時、そしてカーボン排出の問題が重なった時にはこれからは木材をと言う動きが採られた。これは現在の状況から予測可能な未来への対応と言える。
しかしそれ以上に何が起きるか?しかも非線形で広範囲となるともうお手上げだ。
こうした議論は過去にメタボリズムの時代に既に行われていて、既に決着を見ている。答えはざっくりと言ってしまえば「諦める」だ。予測できない未来に対応するには変えられるようにすると言うもの。巨匠達にして答えはこれだ。
とすると、「未来の」を要求する時にそれは何を意味すると考えれば良いのか?、と一周回って元のところに返ってくる。この今現在、多くの場所で「未来の」建築への回答を求めている。そのいくつかはメタボリズム以上の答えを求めているだろう。今作って100年後にも200年後にも何らかの形で存続できる方法とは何か?ダメになったパーツを交換し、利用価値の無くなったプランを変更しと。
けれども別の一部で求めている答えは非常に無責任なものもある。未来予測してそれに合う建築をしなさいと、ただ単に無邪気に言っている。そうした問いに対する答えはさらに非常に無邪気なものである。無邪気な答えはそれが未来永劫固定された建築になりそのさらに先の未来は変化しない事になっている、決定版の未来像。空中に浮いた想像上の未来だ。つまりそれはSFに等しい。
だけれども、人間がそうした思考をしてしまうのも、人間の性質としてある意味仕方ないかも知れない。そこにあるのは変えたいと言う欲求や新規性を求める欲求だから。そこに現在の現実の問題解決を絡ませると何とは無しに説得力を得る。面白みを感じさせ、現実感を滲ませる。けれども、非常に無責任のようでもある。
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