2021/11/03

一緒にすると分けるが混在する

 1つの建築物の中には必ず「一緒にする事」と「分割する事」が混在している。これはどの時代のどの建築物でもほぼ同じだと思う。もちろん世界中の全ての建築物を見て言っているのではないけれど、これまで実際にも写真等でも見た物は全てそうなっていた。

どう言う事かと言うと、建築と言う作業をすると何らかのまとまった1つの物を作る事になる。1軒の家とか1つの美術館や博物館、オフィスビルや集合住宅は1つの建物か1つの敷地に入った1群になっている。つまり1つの物として企画される。

例えば1軒の家は1軒の家だけれど、その中身は壁やパーティションによって区切られている。間取りで区切られてそれぞれに機能を割り当てられて1軒になっている。中には機能無しの空間と言うのもあるけれど、隣りにある空間や部屋とは違う物としてやはりそれの1つの機能と考えても良いわけで、それもやはり1軒の家の中に「一緒にされ」ている。

けれど、せっかく一緒にしたのに中身は「分けて」いる。何故なのだろう?



ふっと、うちの猫を見る。こちらは可愛がっているつもりでこれまで一度も危害を加えた事はないが、箱に入って寝ている。猫も自分で空間を分けて使っている。

団地の中で「食寝分離」と言うのが標準になって使われた。このモデルが団地以外でもその後ずっと使われている。nLDKのようになって今でもある。夫婦の寝室、風呂、トイレ、キッチン、リビング、玄関、子供部屋のようになっている。分けるには物理的な理由もある。例えば水を使う部屋どうしはできるだけ近い方がコストが安いし換気の面でも似た性能が必要だ。でも、もしその問題がクリアできても「分ける」は存在し続けるだろうと想像する。

映画やドラマに出てくる億万長者の住む城のような家は1つ1つの部屋は広いけれど、やはり分けられているイメージがある。部屋が多くてお屋敷の中で迷ってしまうような。体育館ほどのだだっ広い1つの部屋に全てが入っていそうなイメージは無い。


うーん、人も猫と同じなのだろうか?やはり危険防止が分ける事の根本的な理由なのか?

新型コロナでこれまで毎日仕事に出かけていた人が家にいて、子供は学校に行けず、家族が一緒に1日の時間を家の中で過ごすようになって家族関係が悪くなるとか、中には暴力事件に発展すると言うようなニュースも出てきた。それが全体の傾向として増えたかどうかまではデータが無いのでわからないが、そうした問題も出てきた事は確からしい。

家族が一緒に過ごす事は総じて安心や安全を得るには良い事ではあるにしても、その中に入ると実は完全な安全、安心ではない。自分の経験の上でもそうだと感じる。父親と同じ部屋にずっといる事は困難な事だと感じるし、風呂やトイレに入るのに家族と言えど見られるのは全く現実的に考えられない。猫のように狭い場所で1人でしたい事がかなり多いのは確かだ。


日本の家ではお風呂とトイレが分かれているのが多い。家族で使うお風呂は1に1つ。トイレも共同で使うので家に1つだけ。そんな状態が全く考えられない国もある。トイレと風呂は一緒になっていてしかも寝室の横にある。だから面積が許せば寝室1つに必ずバスルームがセットになっている。だから寝室とお風呂やトイレが離れた場所に歩いていかなければならないなんて、しかもそのためだけに階段を昇り降りさせたりもするのはバンコクあたりのバックパッカーが泊まるドミトリーと同じだとなる。

しかしながら、ある意味、日本の家族関係は他国のそれよりは安全なのかもしれない。つまり、お風呂に入るのにパジャマを持って下着姿で歩けると言う意味だ。そう言う安全性の高い家族関係が背景にあるとも想像できる。それでも、壁が必要な程度には危険かもしれないが。


なぜこんな事を今更考えているかと言うと、理由は2つある。

1つは、写真でいろいろな建築家さんの家にまつわる作品を見ていると、その多くが従来の家のような壁やパーティションが無いかとても少ない。あってもそこに穴が開いていて壁らしい機能を捨てている。他人の家の中を写真で見せてもらうと狭い敷地であってもよく言う「気持ち良い空間」が作られていて納得する。家族がべったりではないにしろ、いると言う気配以上のものを感じる事ができて、それは家族のコミュニケーションに貢献する(らしい)。こうした傾向は、コミュニケーションしたい要求を反映してのものなのか?それとも、建築側の使命感として人どうしのコミュニケーションを促進するあいまいさを導入しただけなのか?

しかしながら、今現在でも「分ける」の方がメジャーなものとして市民権を得ているのが事実で、その不整合はどう考えれば良いのかとも思う。


もう1つは、これとは全く関係無い事だが、脱構築と言うようなのがあって、これに関してはいろいろ語られているしその内容もいろいろで簡単に一言二言で言えるものではないのだけれど、本当の根の部分まで遡るとどうやらこれはこうだと言う現状に疑問を呈するところから始まっているらしい。

それで、「一緒にする」と「分ける」が普通に誰もが疑問を持つ事なく行われている点に疑問を持っているのだ。分けるのを少なくする事に関しては、これと別の方向から多くの方々に検討されていて行われている。けれども、分け方に関しては手薄なのではないかと感じている。特に外観でなくてその中身と機能に関してだ。

上に書いた安全と言う前提条件が特に議論する事なく用いられている事や、プログラムの要素としてお風呂はお風呂と言う1つのエレメントとして不動の地位を保っているような事がそれが本当に今後も当たり前として通用するのか?と言う事だ。

変な話だけれど、東南アジアを旅行してどこかのお店で1皿頼んで食べる。レストランとしてはそれが普通で東京でもそれは変わらないが、キッチンまで同じとは限らない。そのレストランの裏に回って見るとレストランの建物の裏側に下水の溝が通っていてその脇に外国から出稼ぎで来ている労働者がコンクリートのたたきに座って盥を前にして皿を洗っている。日本ではキッチンの中に食洗器や洗い場が必ず作られていてそれはセットとして存在するが、ここではそうではない。少なくとも食器洗いは外に置かれて分割されている。労働も分割されているから見習いの調理人が皿を洗う事もない。

一般家庭でもキッチンに関してはドライキッチンとウェットキッチンに分かれている場合も多い。火を使う場所と洗い物や煮炊きが分かれている。掃除用具の置き場はどうだろう?日本ではクローゼットと一緒にしたりする場合があるが、外国人家政婦さんを雇うのが普通の国では自分の服と箒、バケツや床掃除用の洗剤を一緒に置く等はもっての外だ。

こうした事は生活習慣から来るものだけれども、それにしても、今のやり方、つまり分け方はどうなのだろうか?本当に分ける必要があるところで分けているのか、それとも必要や習慣と関係なく別のアイデアを導入して分けても構わないのではないかと思っている。その結果が機能的に異形であったとしても、それもアリにできる方法は無いのか?と。

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