2021/09/16

動画視聴「建築家として、生活者として—プログラムとパラダイムの先にあるもの」LIXILビジネス情報サイトより


 視聴希望の場合は下のリンクから入ってください。無料視聴は2021年9月30日までの限定ですのでお早めに。


以下はアーキテクチャーフォトさんが動画から抜き出してまとめてくれた動画のキーワード。

動画内で語られたトピック(アーキテクチャーフォトが動画から抜粋)

コロナ過での生活の振り返り / 住まいの中で働く / 窓のないオフィス空間 / 満員電車での通勤 / 働く人を快適にするのに住まい的な考え方が応用できる / 建築家は働き方が比較的自由 / 現場が止まる / ZOOMでの現場管理 / 主宰者とスタッフ全員が現場に行くのは大変 / 乾さんは夕ご飯前に家に帰るようになった / 空間や暮らし方の発見 / パンを焼く / 過程の中の楽しみを増やす / 走り出した / 場所から離れて仕事を出来る人と場所から離れると仕事ができない人がいる / テレワークができない人がいる問題 / 遠隔治療 / しゃべらなければいけない場をどうデザインするか / オフィス・レジ / 乾さんの住まいの原風景 / フラットルーフの家 / 父方・母方の家での経験 / 乾さんが建築家になろうとした切っ掛け / 週刊新潮のマイプライバシーというコーナー / 間取りを見るのが好き / 末っ子で自分の部屋がない / 中間領域の価値を再評価する / 軒先 / 土間・縁側が今の学生の課題に多い(昔は、カフェ・ギャラリー) / 都市計画の精度の中でどうやってつくっていくか / 90年代のプログラム論 / 図式的なプラン / 2000年代に用途がはっきり決まっていない空間が増える / 2010年代は機能がなくなる / 建築家がプログラムから離れていく / プログラムとプラン、今はどう捉えるか? / 脱法したものに制度が追い付いていく / コーリン・ロウ / プログラム的・パラダイム的なつくり方 / 2000年代以降は美術館とはそもそもどんなものかを考えなければいけない / ものの設計・つくり方の設計 / リサーチと設計 / 公共トイレ / LGBT / 個室が並ぶ / 一番貧しいところでみんな我慢する / 設計事務所ゴンドラの小林純子さん / 女性のトイレをきれいに便利にしてきた歴史 / タイポロジー / どうリサーチしたものを使うのか? / メンテナンス / 保存の創造性 等々



半分から後が特に聴き所です。(時間が無ければ前半は高速再生でも良さそう。) 「中間領域の価値」のあたりからです。

90年代のプログラム論と言うのが実際どんなものであったか、自分はよく知らないのだけれど、プログラム的な作り方と言うのはモダンの建築がその合理性から建設に取り込まれて行ったあたりから出てきているような気がしなくもない。なぜなら中間領域のようなプログラム的に定義し難いあいまいな空間のような事は90年代以前から言われていたような気がするから。(特にこれに関して証拠を探してきて示す事ができないので勝手に自分でそう思っているだけかもしれない。間違っていたらごめんなさん。)

確かにプログラム的なやり方は誰にとってもとても簡易でやり易かった。今でも普通に「間取り」のように考えて家をデザインする事はあるわけだし、そして先日やったスターハウスの元設計の食寝分離もこれは全くのプログラム思考と言って良いと考える。だからインテリアデザインしろと言われてまず気になるのはそこ。(もっとも団地が出来始めた頃のように夫が朝から晩まで仕事に出て妻は家で家事と子育てと言うモデルに反発したくなる気持ちは多くの人が持つようになってそのプログラム自体が時代遅れと言うのももちろんある。けど、それは動画の議論とは別の話。)

それでパラダイムから建築と言うのも、どうしてそこに至ったかはたぶん多方面からいろいろあったのではないかと想像する。これはこう考えるべきだよね、とけっこう大枠から考えて正しくやっても実はまだまだ問題は残るし、それでも個別の問題を1つか2つ解決したに過ぎなくなったような事になる。コンテキストみたいなのも(これは動画でも言われていたけれど)、それは皆がそう思っているから正しそうに思うけど、本当にそれで良かったっけ?と言う事にもなる。

特に住む事に関してはコロナの影響で生活や仕事のやり方が変わった人が出てきて、「あれ、これまでこうだと思っていたけれど、それ違ったんじゃない?、あれは無駄な労力だったんじゃない?と言う事が明らかになってきて、社会全体としてこれまでのパラダイムに疑問を持ち始めたと言う事もあると思われる。結論は未だ出ていないにしても。


ではその次にどこに行くかと言うと、そもそも論のような形で「●●とは」から、つまり定義から考えてデザインすると言う方向へ。要件与えられて満足するように作るのは可能だけれど、それで何か良くなるとか解決するとかがあるか?もし無ければそれは建築やっていると言えるのか?みたいな言じゃないかな?

こうした事に関してまだ決定的な答えは無いよに思う。



メンテナンスについてだけれど、最近ちょっと考えているのが、建築物は建てる時に未来永劫ずっとそこに存在する位の勢いで建てられる場合が多いけれども、実際は意外と早く壊されると言う事。

よく考えてみれば、今目の前に見えている建物は100年後にはきっとほとんど無い。つまりどんな建築物も長くてもだいたい人間の寿命までは持たないと言う事。建築家の巨匠がどんなに偉大な人でも、その人の作品が今どんなに素晴らしいと賞賛されていても100年後にはきっと無い。残念だけれどそれが現実。ヨーロッパの街並みのようにたまたまある時点で止まって、今現在それに価値が見いだされて存続が望まれていれば残れるだろうけれども、日本でそうなる建築物は国宝にでも指定されていなければきっと無い。

今、この事をよく考えて乗り越えないといけないのじゃないかと考える。今であればSDGs方面から何か出てくると思うけれども、それだけじゃなく、時間を乗り越える何かの価値観と実際の方法論が必要な気がしている。環境問題ばかりでなく、外観の面でもそれが必要なはず。もしコンテキストを読んで建築をデザインしたり企画したりする時に、今のようなご都合主義で合理性優先な街のままであればやっても何の意味もない事になる。周囲の事情を無視して箱庭建築を作る事が建築の仕事になってしまう。

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