2021/09/28

出しゃばり過ぎない「塔」の提案に感銘

 The Sponge: Skyscraper To Collect Rainwater For Drinking And Farming In Africa (クリック)

eVoloのスカイスクレイパーコンペティション2021の奨励賞の作品。これは他の作品とは異なるとても興味深い作品だった。

スカイスクレイパーのコンペなので塔を提案しなければならない。塔となると建物としての塔単体の建築案が多いが、これもそうであって、そうでもない。そうでない部分は塔を中心にした生活の場を含んだ提案になっているところ。そうである部分は提案しているのが塔の部分だけであるところ。矛盾した言い方かもしれないが、提案は、あえて塔を提供するだけに留めている。つまり都市計画ではない。

やり方としてはそこにある村の要素を分解して塔にまとめているだけだ。追加したのは塔の中央にある「水」のみ。生活の基本てきやり方は何も変えていない。塔があるからメンテナンス用にマネジメントは必要だが、行政の機能は追加していない。壮大な提案ではあるが出しゃばり過ぎる事に警戒している。


塔を建てるとどうしても無意識に都市のようなものを考えてしまう。そこを中心に何かが行われる。中心ができるとそこに人が集まる事もあってマネジメントが必要になる。マネジメントはつまり行政で、行政があるとそのコストを賄うために税金が必要だ。税金があり、すべき項目が多くなると配分を考えなければならず、代表者が選出されたり首長が出てきたりする。そうなると生活もこれまでと全く変わってしまう可能性があり、権力が集中し人はそれに従う事を要求されるかもしれない。

この案はそれを全く要求していないどころか、故意に避けている。素晴らしい作品だと思う。この作品で優勝できないとは!


建築と言う作業は「インターフェイス作り」と定義する場合もある。そのインターフェイスが何と何のインターフェイスかと言うのはあまりはっきりとは言われない。建物と人と言うし、人と人と言うのも一般的だ。建物と人であればそれは作る事が重要で、作りてのエゴのように感じられる事もある。人と人は言うまでもなく、異質の人どうしが出会って何かが起こるような事。よくある。この作品は生活とその具体的手段のインターフェイスだろうか? 自分としてはこの作品のようなインターフェイスが理想的と考えるのだが.. どうだろう?


らくがき「国会議事堂コンセプト」

 

昨日、塔の作り方を考えていたが、逆にした方が良いものもあるのではないかと思いついた。塔は上方に高く聳えるものだが、地面より下方に作られて上から覗き込まれるものだ。それが国会議事堂。

国会開催時には傍聴が可能だが、30分前に行って傍聴券をもらう必要がある。委員会は議員を通じて許可をもらわないと傍聴できない。傍聴では拍手や声をあげる事はできない。国会に入るには一応ドレスコードがあるらしい。(明確でない。)ただ、コートは脱がないといけない。(テロ対策と思われる。)

と言うわけで、適当に行って上から覗くようにしたら良いのではないか?と言うもの。


現在の議事堂は、昭和11年(1936)に帝国議会議事堂として竣工。設計は一般公募(コンペ)され、118応募の中から宮内省技官、渡邊福三(1870年(明治3年)7月11日 - 1920年(大正9年)3月19日スペイン風邪で亡くなる)の案が採用された。案は「ギリシア様式ルネサンス風」だとの事。工期は17年を要している。帝国議会の議事堂だけあって"帝都の威信"を体現した重厚感ある建築。つまりは欧米の議事堂に負けない立派さを求めてデザインされたと考えられる。

とすれば現在のような民主主義そのものを表現したデザインとは言い難い。(帝国議会が民主主義と反対の体制であったと言うのではない。一応帝国議会の中でも徐々に民主化への動きが進んでいた事は事実。戦時中だけの事を考えてもまずい。議事堂建設はそれ以前の時代であるから。)

そのあたりを踏まえて考え、そして今の政治の在り様も考えて次に作るとしたらどうだろう?と言うもの。(笑って!)

2021/09/27

塔の作り方を考える

 塔の作り方を考えてみた。

塔と言う物は、横幅や奥行きよりも高さの方が何倍も大きい。だから高く空に向かってそびえ立つ形状になっている。

通常は周囲の建物よりも高くなるので皆が見る。機能的に高くなければいけない場合としては東京タワーのような電波を送受信するもの。横浜ランドマークタワーのように目立つ必要があるもの。敷地面積を可能な限り有効に使いたいためにタワー形状で建てられるオフィスビルなどの場合がある。

機能でなく、何かの象徴のような意味合いを持たせる場合にも塔が使われる。
たった1つの真理がある事を表現するためにも塔が使われる。宗教のような場合だ。この場合、その他の真理らしきものは全て排除され認められない。
また、権威を示す場合にも塔は使われる。現在の教育制度では学問は民主化された制度の基に行われているが、昔はそうではなかった。学問を修める建物の中央は高い塔とそこに時計が置かれた。これは学ぶ者達が1つの統一されたルールに権威によって管理されている事の象徴である。
教室の中では学生は教師に従わなければならない。教師は絶対的な真理を「授ける」者として扱われた。つまり、権威の執行代理人である。
となると、塔の最上部には真理を持つ絶対者が存在する可能性が出てくる。歴史の中ではたまにそうした事例がある。塔を作る場合には、このようにならないように注意しなければならない。

ではどうするのが良いか? 準を追って考えてみる。
どんなカテゴリー、セグメントの人も平等にアクセスできる必要がある。
塔はどうしても上方に伸びるので、人が上方へ向かう理由を考える。観光なら誰でも上がれると思うが、料金が発生した時点で平等が損なわれる可能性がある事も考慮しなければならない。(建設にもコストがかかるのでバランスが必要。)
上昇して向かう先はどうなっているのだろうか? 向かう先が1つであればそこでまたヒエラルキーが生じる可能性がある。そして人々をたった1つのスケールで評価して順に並ばせてしまう可能性もある。上方に伸びる線を1つとする必要は無く、多くのオプションがあっても構わないだろう。


そして出来たのが上図の右側である。下段には多くの入口があり多くの人々に開かれている。そして中央付近で混じり合う。上方にはヒエラルキーに従わないいくつかの部分があり、必要に応じて、または好みに応じてどこかに入る事ができる。最上部になる部分はいくつかあってそこに優劣は無い。また最上部に人が立ち、下を見下ろす事はない。


2021/09/21

昭和の家 ガシャガシャか静かか?

  今津康夫 / ninkipen!による、奈良の築50年の住宅を改修した、照明ブランドのオフィス兼ショールーム「NEW LIGHT POTTERY」

たまたまFacebookでarchitecturephotoさんのこの記事(2018年)が回ってきたので見せていただいた。この最初の写真が面白いなあと思ったからだ。この錆びたトタンの外壁がそのまま使われている。普通リノベーションする時にここまで錆びてしまえば外して別の外壁材に交換、と簡単に考えてしまうところ、それを活かして使っている。それだけでこの記事、ちょっと読んでみたいと思うわけ。

そうしたら中身はもっと面白かった。たぶん、ショールームに入ったところの床は基礎の高さまで下げて段差を無くしているのかな?(それとも元から土間だったのか?そんな風には見えないが。) それと、その土間っぽいところまで置く側から伸びていたのではないかと思われる梁を切ってしまって天井を屋根まで高くしているようだ。元は壁が付いていた柱は壁を取り除いてすっきり大きな空間にしたせいでポツリとそこに立っている風になった。いろいろな拘束から解き放って日本家屋が近代建築になっている。そこまでしても外形は追加されたトイレの部分しか変わっていない。なかなか面白い。

ちょっと違和感があるのは庇の裏側にエアコンのダクトやたぶん補強か何かを収めた部分が四角く囲われていて重い感じがするところ。でも、本当に面白い。


ちょっと話の方向は変わるのだけれど、最近の建築の傾向として出来上がりが「静か」だなあと思う。これはショールームだからもちろん他のものとは違うし演出としては狙いだろう。まあ、それは置いておいて、多くが「静か」だなと感じる。ちょっと前には定義のあいまいな空間のようなものが作られていてそこで異質なものどうしがぶつかり合う的なものがけっこうあったと思ったけれども、今はそう言うのは流行らないのだろう。建築を離れて昭和後期を思えばあの時代はもっとガシャガシャで普通にしていてもぶつかり合っていたと感じるのでずいぶんと時代は変わったなと、この作品を見てそう思った。

現代において本当には何が良いのか、と言う問いに対しては議論の余地があるのだろうけれど、さて、もし自分自身で自分の空間として作る上げるとしたらガシャガシャなのか、静かを選ぶのか?


2021/09/20

昭和の家について迷う

 

以下の話は建築と関係あるような、無いような話。


最近は年号「昭和」と言う単語の後ろに「レトロ」と言う言葉が付く。昭和レトロ。

でも、昭和は長くてレトロと言われるその内容を見ると多岐にわたたる。そして今に持って来られるアイコンの多くはマットな感じでラップされていて、大正レトロと区別が付かないような印象になっている。

昭和後期世代から見ると昭和って、どんよりした時代だったけれど、もっと艶があったんじゃないかな?と思いもする。それにいろいろな物が、今にしてみれば、現在ある物たちの「種子」だったのかなと言う気もする。いつの日か、今の簡易なレトロ感を脱して再評価される時が来るのだろうか?

 

それで、もう1つ思うのは、昭和の物ってゴミだと言う事。。なぜなら、昭和の時代に作られた物はその時良くても「使って捨てる物」と言うのが大前提だったから。電気製品はもちろん、日常の生活で使うあらゆる物は全て数年ののちにゴミになる。何と、家もゴミだ。当時数千万円で建てた家も5年かそこらで家自体の価値はゼロとされた。土地の値段が上昇するからそれでも良かったのだ。

今となってはそれもおかしな話だなと考えられている。数千万円投資してローンは子に引き継がれるが家の価値は無い。売ろうにも投資額と比べれば二束三文の価格で処分してもらうような事になっている。そしてもう古いし時代に合わないし壊そうか?となる。そこに新しい家が建てられるならね、と言うのはあるにしても。

新しい家が建てられるならね?だって?無理無理。なら売っちゃう?場所が良ければね。うーん、それも無理。でも壊さないと朽ち果てるだけだよなあ。自分は今後そこに長く住みたいとは思わないし...


ちょっと考えて...

壊してしまうのは簡単でもそうすると絶対戻って来ないわけで、そこをちょっと考えないといけないなと思わないでもない。


昭和の事

自分の中の昭和ってのは70年代から80年代だった。それ以前は子供過ぎたし、昭和は80年代で終わったからその約20年間だ。

あの時代がどんなだったかと言うと、一言で言えば全体がスモークの中にあって、そこから先が全く見えなかった。そんな印象がある。それは良い意味でも悪い意味でも。自分には歳上の兄弟がいなかったから自分に入って来る情報はほぼテレビだけだった。親は特に子供の自分に何か社会の事を説明するとかそう言うのは無かったし、労働者階級の人間だからきっと出来なかったのだと思う。だからテレビしか無かった。自分で情報を集められる年代になってラジオが手に入ったけれど、自分を形成するのに役立つ情報は無かった気がする。

だからただ、雰囲気だけ感じていて、何か騒がしくなっているとかお祭り騒ぎとか感情的に何かを感じているに過ぎなかった。だから具体的にこれからどうなるでもないし、どうすれば良いと言う事も考えられなかった。要はボーっとして生きていた。

ボーっとしていたけれども、自分より上の世代は実は自分達世代よりずっとずっと忙しかったのだと言うのはかなり後になって知った。自分が知っているのはその忙しい時代の残火のような事件だけ。浅間山荘とかそんなものだけ。しかも意味なんてほとんどわかっていなかった。

1970年には大阪万博があってお祭り騒ぎだったけれど、それがどうして凄いのかもよくわからなかった。大学の時に少し上の人があの万博があった事で「これからの時代は科学の力で何でもできる」と明るい未来を感じたと言っていて、へぇと思ってちょっと驚いた。

だから自分にとっては明るいかも知れないし、陰惨かも知れない。よくわからないが、その後どうなるのか全く想像がつかない、そんな風にしか感じられなかった。つまり、人生なんて考える事も、そんな言葉を使う事もできない無能なただの動物として生きていた。

 

そう言う事について誰かと話すと言うアイデアもないし、誰かに聞けるでもない。そもそも何をどう聞いて良いのかすらわからないのだから仕方ない。そんな時間の中で自分がどうしていたかと言うと、何となく一人で本を読んでいた。時間潰しでしか無いが。

そんな時代を今、懐かしんだりレトロと言って面白がるってのが自分にはよくわからない。映画の「三丁目の夕日」なんかはそれよりずっと前で同じ昭和でも自分にとっては江戸時代や平安時代と変わらない歴史の教科書の中のものだ。その後の実際に自分が生きていた昭和っていったい何だと思い返しても何らかのアイコンで象徴されるわかり易いものが何も思い浮かばない。

方向性が無くてめちゃくちゃだった事だけは言える気がする。めちゃくちゃと言うのはイデオロギー的に方向性が決まっているでもなく、皆して好き勝手やって何とか全体としてカッコついてるような、そうでないような。でも生きる中ではあまり不自由は無くて、とりあえず豊かかもと言う感じ。


話は戻って...

この昭和の家、自分の知る70~80年代のエレメントを使ってやり直してみたらどうだろうとちょっと考えている。昭和の時代、ちゃんとその時代を呼吸していなかった気がするのと、もし自分がその頃にもう少し何かできたなら、自分は家をどうしただろうかと思う。もちろんもうその後の時代を知ってしまった後なのだけれども、もう少しマシな昭和にできて、マシな家にできて、ゴミにしないで人が住み続けられる昭和の家に変えられないだろうか、と。

2021/09/16

動画視聴「建築家として、生活者として—プログラムとパラダイムの先にあるもの」LIXILビジネス情報サイトより


 視聴希望の場合は下のリンクから入ってください。無料視聴は2021年9月30日までの限定ですのでお早めに。


以下はアーキテクチャーフォトさんが動画から抜き出してまとめてくれた動画のキーワード。

動画内で語られたトピック(アーキテクチャーフォトが動画から抜粋)

コロナ過での生活の振り返り / 住まいの中で働く / 窓のないオフィス空間 / 満員電車での通勤 / 働く人を快適にするのに住まい的な考え方が応用できる / 建築家は働き方が比較的自由 / 現場が止まる / ZOOMでの現場管理 / 主宰者とスタッフ全員が現場に行くのは大変 / 乾さんは夕ご飯前に家に帰るようになった / 空間や暮らし方の発見 / パンを焼く / 過程の中の楽しみを増やす / 走り出した / 場所から離れて仕事を出来る人と場所から離れると仕事ができない人がいる / テレワークができない人がいる問題 / 遠隔治療 / しゃべらなければいけない場をどうデザインするか / オフィス・レジ / 乾さんの住まいの原風景 / フラットルーフの家 / 父方・母方の家での経験 / 乾さんが建築家になろうとした切っ掛け / 週刊新潮のマイプライバシーというコーナー / 間取りを見るのが好き / 末っ子で自分の部屋がない / 中間領域の価値を再評価する / 軒先 / 土間・縁側が今の学生の課題に多い(昔は、カフェ・ギャラリー) / 都市計画の精度の中でどうやってつくっていくか / 90年代のプログラム論 / 図式的なプラン / 2000年代に用途がはっきり決まっていない空間が増える / 2010年代は機能がなくなる / 建築家がプログラムから離れていく / プログラムとプラン、今はどう捉えるか? / 脱法したものに制度が追い付いていく / コーリン・ロウ / プログラム的・パラダイム的なつくり方 / 2000年代以降は美術館とはそもそもどんなものかを考えなければいけない / ものの設計・つくり方の設計 / リサーチと設計 / 公共トイレ / LGBT / 個室が並ぶ / 一番貧しいところでみんな我慢する / 設計事務所ゴンドラの小林純子さん / 女性のトイレをきれいに便利にしてきた歴史 / タイポロジー / どうリサーチしたものを使うのか? / メンテナンス / 保存の創造性 等々



半分から後が特に聴き所です。(時間が無ければ前半は高速再生でも良さそう。) 「中間領域の価値」のあたりからです。

90年代のプログラム論と言うのが実際どんなものであったか、自分はよく知らないのだけれど、プログラム的な作り方と言うのはモダンの建築がその合理性から建設に取り込まれて行ったあたりから出てきているような気がしなくもない。なぜなら中間領域のようなプログラム的に定義し難いあいまいな空間のような事は90年代以前から言われていたような気がするから。(特にこれに関して証拠を探してきて示す事ができないので勝手に自分でそう思っているだけかもしれない。間違っていたらごめんなさん。)

確かにプログラム的なやり方は誰にとってもとても簡易でやり易かった。今でも普通に「間取り」のように考えて家をデザインする事はあるわけだし、そして先日やったスターハウスの元設計の食寝分離もこれは全くのプログラム思考と言って良いと考える。だからインテリアデザインしろと言われてまず気になるのはそこ。(もっとも団地が出来始めた頃のように夫が朝から晩まで仕事に出て妻は家で家事と子育てと言うモデルに反発したくなる気持ちは多くの人が持つようになってそのプログラム自体が時代遅れと言うのももちろんある。けど、それは動画の議論とは別の話。)

それでパラダイムから建築と言うのも、どうしてそこに至ったかはたぶん多方面からいろいろあったのではないかと想像する。これはこう考えるべきだよね、とけっこう大枠から考えて正しくやっても実はまだまだ問題は残るし、それでも個別の問題を1つか2つ解決したに過ぎなくなったような事になる。コンテキストみたいなのも(これは動画でも言われていたけれど)、それは皆がそう思っているから正しそうに思うけど、本当にそれで良かったっけ?と言う事にもなる。

特に住む事に関してはコロナの影響で生活や仕事のやり方が変わった人が出てきて、「あれ、これまでこうだと思っていたけれど、それ違ったんじゃない?、あれは無駄な労力だったんじゃない?と言う事が明らかになってきて、社会全体としてこれまでのパラダイムに疑問を持ち始めたと言う事もあると思われる。結論は未だ出ていないにしても。


ではその次にどこに行くかと言うと、そもそも論のような形で「●●とは」から、つまり定義から考えてデザインすると言う方向へ。要件与えられて満足するように作るのは可能だけれど、それで何か良くなるとか解決するとかがあるか?もし無ければそれは建築やっていると言えるのか?みたいな言じゃないかな?

こうした事に関してまだ決定的な答えは無いよに思う。



メンテナンスについてだけれど、最近ちょっと考えているのが、建築物は建てる時に未来永劫ずっとそこに存在する位の勢いで建てられる場合が多いけれども、実際は意外と早く壊されると言う事。

よく考えてみれば、今目の前に見えている建物は100年後にはきっとほとんど無い。つまりどんな建築物も長くてもだいたい人間の寿命までは持たないと言う事。建築家の巨匠がどんなに偉大な人でも、その人の作品が今どんなに素晴らしいと賞賛されていても100年後にはきっと無い。残念だけれどそれが現実。ヨーロッパの街並みのようにたまたまある時点で止まって、今現在それに価値が見いだされて存続が望まれていれば残れるだろうけれども、日本でそうなる建築物は国宝にでも指定されていなければきっと無い。

今、この事をよく考えて乗り越えないといけないのじゃないかと考える。今であればSDGs方面から何か出てくると思うけれども、それだけじゃなく、時間を乗り越える何かの価値観と実際の方法論が必要な気がしている。環境問題ばかりでなく、外観の面でもそれが必要なはず。もしコンテキストを読んで建築をデザインしたり企画したりする時に、今のようなご都合主義で合理性優先な街のままであればやっても何の意味もない事になる。周囲の事情を無視して箱庭建築を作る事が建築の仕事になってしまう。

2021/09/15

「CLTアイディアコンテスト2021」少し考える

 CLTについて調べてみた。

コンクリートの1/5の比重、プレカットで乾式工法が可能。となればプラモデル?、いや、スチレンボードで建築模型を作るそのままのやり方で本物が作れると考えて良いだろうか。


河川と言うテーマで難しいのは

1) 河川の上を想定した場合に、どうしてもそこを「通る」に重点が置かれるから、他の建築物と違ってそもそも「儲からない」。そうなるとどうしても税金でやる橋のような物になる。そう面白いものでもない。

ずっと以前、北九州市の小倉に住んでいたことがある。繁華街は小倉駅から南側に広がる街だが、紫川を挟んだ西側に小倉城があり、その北側が開発されて形状も特徴的な大きな商業ビル、リバーウォークが出来た。そこと繁華街を結ぶには紫側を渡る事になり、そのために自動車が通る橋の脇に広い歩道が追加された。その歩道は自動車の車線数で言えば4車線程度ありそうなほど広く、床面は木材でボードウォーク風になっている。日よけと花壇もあっていかにもと言うものだった。

けれど、まあ、単にそれだけの物だった。リバーウォークや城でやっている祭りを見に行く、要はシャレているけれど単に通路だ。その物自体は面白くないのだ。

2) 橋っぽいものを作るとなると土木と喧嘩する事になって、特別何か意味が無いと「木材で?」と言う事になりかねない。

3) そこから見て景色が良いと言うだけでは木質である意味は無い。建造物を見て美しいと思える物を考えるとしてもただのテクスチャの問題なら中身が本当に木質である必要は?

4) コンクリートだって乾式でできる。


そう考えると最初に攻めるポイント1番は何だろうか? 儲かる場所(河川を含む場所)を探して儲かる物を作る事を考えるになりそうだ。

どう攻めるかと考えると、例えば5階建てビルを作れるとして、コンクリートの1/5の質量で済むのであれば地面の上にデンと乗せておく必要ななくて、吊るせとなる。それなら今まで地面の上に置くしかなかった物を河川の上に置いて(吊るして)もビルとして成り立つ可能性がある。問題はアクセスの方になる。

ザハ・ハディドのスケッチのようにけっこうボリュームのある物が本当に重力に拘束されないで空中に舞っているような何かができる可能性も無いとは言えない。

丹下健三のようにデッカい物を釣って、黒川紀章のようにモジュールで交換できて持続性があってハディドのように華麗にと言う。


そして河川であるので両岸を接続すると言う機能を同時に持たせると言うのも良い。

このあたりが建築デザインを考える上では誰でも考えるオーソドックスなアイデアじゃないかと思う。



2021/09/13

「CLTアイディアコンテスト2021」興味有り


CLTアイデアコンテスト2021(クリック)
 

CLTと言う材料の特性をまず理解しておかないと難しい。他の木質系材料とどう違うか、そしてこれが他の木質系材料のリプレイス品でないと言う事も考えないといけない。
また、設計の要素が大きいのでスキルとしてもある程度高いものが必要。

2021/09/12

ピョートル・スミエコーウィッチュ「ザ・ムーン・キャチャー」

 ピョートル・スミエコーウィッチュによる「ザ・ムーン・キャッチャー」 

ADFのサイトにこれが出ていた。これはかなり気になる。

プロジェクトの説明(ADFより)の概略

ロンドンの現代の問題の根底にはメンタルヘルスの問題が潜んでいる。それは主にソーシャルメディアテクノロジーやポストヒューマニズムなどに起因している。16〜24歳の人々の40%はソーシャルメディアプラットフォームに友達が多いにも関わらず孤独で孤立を感じている。

ムーンキャッチャーは、若者が自然の美しさとつながり、エピクロス主義によって提供される身体とマインドの喜びを得られる空間を提案する。その空間では、日中は宇宙論とメンタルヘルスの知識を広げ、クレーターのある都会のビーチで羽を広げることができ、また夕暮れ時には”最新の流行”となった月光浴を行い、夜明けの最初の光とともにホテルの個室へと戻るまで月のサイクルから喜びを迎えることができる。
「可能性は無限なのか?」

読んでもよくわからない。

画像を見てもよくわからない。何か取り残された気持ちになる。
しかしながら、日本の建築の禅問答が実はヨーロッパにもあるのかもしれない。これは今後研究していこう。


ところで、「気になる」と書いた理由だけれども、これは全く個人的な思いから来る事であって、作品自体に対して言っているのではない。そしてそれはいつも感じている事でもある。

この作品の画像を見せられた時にまず、「理解できない」と感じた。今の自分には理解できない。この先理解できる時期が来るかもしれないが、とりあえず今はできない。その次に思うのは、こんな事。見た目から言えば通常誰もが考えられるような図面でもパースでもイラストでも無いのに、作者(達)はこれを堂々と世に出している。そしてそれでもこれは建築の提案だと言っている。しかも、それを建築の作品だとして評価する人がたくさんいる。

建物の隣に巨大な人間が描かれている。風景の中に抽象的な図が複数描かれている。平面上のアート作品として成立しそうでも建築とどう関係があるのかが解釈し難い。それでもそこには建築としての意味があり、たぶんきちんと解説を聞くか読めばなるほどとなるかもしれない。

ここで、注意を自分の方に戻してくる。自分もある程度は奇想天外なイラスト的なものは描けるだろう。(多分多くの人もそれができると想像するが。) けれども、建築の作品を描こうとしてそうした、他人に理解し難い何かを提案として出せるだろうか? そして一番重要なのは、自分はこうした作品を作る時に「自分自身に制限を加えていないか?」と言う点だ。要件を満足する必要はある。コンテキストを考えてやる必要はある。コストも構造ももちろん。でも、世の中技術は発達しているし、これまで不可能と思えた事が実現してきている。それは置いておいても、もっとやって構わないのに何故か自分自身の中で止めているものがあるのではないか? そこが「気になる」理由だ。

この時代、どんな建築物が実現してもどんな奇抜な作品が出てきても驚くことはそう無いと思う。


「LONDON INTERNATIONAL CREATIVE COMPETITION」出してみたい

 

LONDON INTERNATIONAL CREATIVE COMPETITION - LICC(クリック)

これは建築だけではないデザインコンペなのだけれど、出してみたい気がしている。検討中。

とりあえず、過去の受賞作品をちょっとだけ。これはプロの作品で、お墓に付属する施設だそう。(上のコンペティションのトップ画像になっている建築物。)


次はアマチュア/学生部門の作品。受賞は中国の学生。



これらや過去の受賞作品を見せてもらうと、もしかしたら自分たちにもできるのではないか?と思えてもくる。どうだろう?

「スターハウスの未来にある暮らし」他の方の作品は?

 そう言えば、他の人達はどんな風に考えてどんな作品で応募したのだろう?と思って画像検索してみた。けれども1つしか出てこなかった。

応募締め切りになったから公開してしまっても良いように思うけれども、こう言うのは公開しないのが一般的なのだろうか? まあ、それは良い事にしよう。ところで、1つ出てきたのは、総合学院テクノスカレッジ研究科インテリアデザイン専攻の学生さんの作品。


これは1フロア3戸にこだわらずにデザインしている。何と、1つのユニットの中にエレベーターと階段を入れている。と言う事は1フロアあたりの家賃はコンドミニアムクラスにアップグレードすると言う事になる。なるほどなあ。エレベーターが無いと言う点はきっと多くの人が不都合と考える事なんだろう。OBASUのせんたろ~さんもエレベーターの事を考えていた。

でもなあ、と提出案には採用しなかった。エレベーターの取り付けられる場所が難しい事、それと3戸x必要な2階以上の4フロアのみとなると設置と運用コストが住戸のグレードと合わないと考えたから。テクノスカレッジの学生さんのアイデアであれば3戸にこだわっていないので有りなのかも知れない。それにしても模型で細かいところが良くできてすごい。

細かい点で気になったのは...
1)平面図の床の中央部分のテクスチャが模型と違っている事。何かこだわりがあって2方向からの床板の突合せをしているのかと思ったけれどそうでもないのだろうか?
2)元の階段を潰した玄関ホールが広めの通路にしかなっていない気がしてちょっともったいないかもしれない。
3)親寝室と子寝室が近すぎないだろうか? ベランダでつながってしまっているし。
4)寝室と風呂の距離が離れているのは日本では普通にあるので疑問に思わないかもしれないけれど、将来もそれで良いのかなとも少し思う。
5)リビングに入る入口が玄関ホールとキッチンの壁で区切られていて狭くなっている。うーん?どうなんだろう?
6)コンロがアイランドタイプになっているけれど、天井が低い室内での排気は大丈夫なのかな?
(言う事細かすぎる?)

次回の参考にさせていただきます。ありがとうございます。

2021/09/10

「次世代店舗アイデアコンテスト2021」リサーチ

 

リサーチに先立って、最近ちょっと話題のこれについて。

『人新世の「資本論」』 斎藤幸平 著

本は売られているが、その前にネットでインタビューが多く出ているので検索してみると良いと思う。斎藤氏はマルクスの新解釈によって受賞しているので時代として象徴的であるけれども、実は現代の資本主義とその問題点に関しては別の学者さんたちも似たような事を言っている。

資本主義が発展できた理由は、安い原料となる資本を世界のどこかから「略奪」して来ているからだと言うもの。土に埋まっている原料鉱物を掘って来ても基は無料だ。掘るのには少しコストがかかる。そして運ぶのにもコストがかかる。それを加工するのには人件費や設備費などがかかる。であるけれども、それを販売する場所に持っていくとその累積コストを何倍も上回る価格で売られている。取引はフェアとは言えない事がこれでわかる。

その結果、原料供給地に住む人々はいつまでも貧乏なまま。最終製品の販売されるところにいる人と資本家はとても裕福になりその富は加速的に増大するから差は広がるばかり。

そうしているうちに原料は枯渇する。環境は悪くなる。人は育たない。そのうちに地球上に人は生きられなくなる可能性がある。


今回の提案のポイントはまずその点とした。


また、そこに実際の飲食店やカフェで遭遇する問題点を1つ追加してまとめて提案した。提出したパネルはいつものように提出期限締め切り日(2021年10月18日)の後にここで公開します。

2021/09/09

「次世代店舗アイデアコンテスト2021」

 



当初、このコンテストには応募するつもりは無かった。店舗デザインとなるとグラフィックな操作が多そうで、それは得意分野ではないから。けれども、募集内容をよく読んてみると店舗そのものでなくても良いとの事だったので、テクノロジーやサスティナビリティを活かした店舗で使うシステムと言う事で提出してみた。

提出日は2021年9月9日。

つづく