2021/11/17

SketchUp / 1週間チャレンジ (Kindle版とペーパーバック版) 発売しました。

 SketchUp / 1週間チャレンジをAmazonから発売しました。

Kindle版が490円です。(読み放題で契約の方は0円) 大きなサイズの図が多いのでタブレットかパソコンで読んでいただくと良いと思います。

ペーパーバック版は印刷代がとても高いので税込1980円(本体1800円)にもなってしまいました。高いのでたぶん誰も買わないでしょう。ペーパーバック版はA4サイズで150ページ。Kindle版と異なり紙で読み易いように再編集しています。紙のメリットを活かす為に章毎にメモ欄も付けました。


SketchUp / 1週間チャレンジ (Kindle版) (←クリック)

この書籍の特徴は、普通の基本操作の解説に加えて躓くポイント、操作はできても考え方がわかり難いところ、そしてSketchUpには不可能な事や操作は正しくてもエラーが出てしまう事などを実際にやってみて検証しています。基本操作の方法ではできない事をプラグインでカバーする方法も同じ場所に書いています。下図はその例です。




それから、学習した操作方法を実際に使用して複雑めなモデルを作成してさらに困難なポイントを抽出しています。普通に垂直に立つ柱や壁のモデリングであれば誰でもできますが、対象とする読者は建築をやりたい人だと考えているので少なくともフランク・ゲーリー作品のモデリングができそう!程度にはしたつもりです。(つまり、ミース・ファン・デル・ローエや安藤忠雄のようなのではないもの)

注意点としては、AutoCAD等他のツールも同じですが、1つの事をやろうとした時にやり方は1つではないと言う事。目的とする形がどう言うものか、モデル作成の目的がアイデアを形にする事かプレゼン用に作成するのかや、作業工程の前後関係、自分の好み等によって選択肢の中から選ぶ事になると思います。学習した後にいくつか実際に作成しながら選んでいく必要はあります。操作覚えたからそれで終わりではないです。

作業の前後関係と言うのは、SketchUpに手描きのスケッチをインポートするのか、他のCADで描いた2D図面か、それとも3Dモデルか、そして出力がどんな形で欲しいのかと言う意味です。当たり前ですが、これ単独で建築の作業は成立しませんので。

とりあえず、Amazonから試し読みしてみてください。もしもっと詳しい情報が必要であればこのブログ上から連絡いただければと思います。


2021/11/15

SketchUp / 1週間チャレンジを出版する事になりました。


 

当初そんな予定は無かったのですが、SketchUpを学習する多くの方々にも有用とのご指摘を受けAmazonから電子書籍として出版する事になりました。日程は未定ですが近日中に出版される事になります。他で宣伝もしませんし、あまり売れるとも思いませんので値段は安く設定します。


内容は基本操作に的を絞っていますが、基本操作でカバーできない部分や間違えやすい部分に関しても掘り下げて書いています。また基本操作を用いてどこまでモデリングできるかの検証とその中での実際の困難についても書いています。

2021/11/11

SketchUpでモデリング中 その2


 

いろいろやってみているが、今のところ前回のモデルのところに戻って爆風にやられた風にしてみている。

えっ、何の意味があるかって?

最近は自然災害等、思いもよらないいろいろな事があって避けられないと言う事もある。家が必ずしも安心できる場所ではなくなってきていると思いませんか?

2021/11/09

SketchUpでモデリング中

最近記事をアップしていなかったので画像を載せておく。

これはいろいろやってみている中でSketchUpに何が難しいのかを確認するために作成したモデル。なのでこれを作成するのが最終目的と言うわけではない。そしてこれは途中の状態で完成でもない。そして素直に気持ち良い空間と言うようなものを作る気もない。どちらかと言うとその逆にしたいと考えている。







10月30日の記事でも書いたのだけれど、SketchUpはやはりCADだと感じる。操作方法は手続き主義であって、要はAutoCADと考え方としては違わない。とりあえず図面になるかはわからないがここをちょっと引いてみる、押してみる、歪めてみると言うようなのが不得意だ。それと点と点をほんの少しもずらさずにきちんと合わせる事も要求される。

何年後かにAIが導入され、人の言葉を理解してモデリングしてくれる事を望む。「ちょっとこうしてみて」と言うようになると良いのだが。 

2021/11/03

一緒にすると分けるが混在する

 1つの建築物の中には必ず「一緒にする事」と「分割する事」が混在している。これはどの時代のどの建築物でもほぼ同じだと思う。もちろん世界中の全ての建築物を見て言っているのではないけれど、これまで実際にも写真等でも見た物は全てそうなっていた。

どう言う事かと言うと、建築と言う作業をすると何らかのまとまった1つの物を作る事になる。1軒の家とか1つの美術館や博物館、オフィスビルや集合住宅は1つの建物か1つの敷地に入った1群になっている。つまり1つの物として企画される。

例えば1軒の家は1軒の家だけれど、その中身は壁やパーティションによって区切られている。間取りで区切られてそれぞれに機能を割り当てられて1軒になっている。中には機能無しの空間と言うのもあるけれど、隣りにある空間や部屋とは違う物としてやはりそれの1つの機能と考えても良いわけで、それもやはり1軒の家の中に「一緒にされ」ている。

けれど、せっかく一緒にしたのに中身は「分けて」いる。何故なのだろう?



ふっと、うちの猫を見る。こちらは可愛がっているつもりでこれまで一度も危害を加えた事はないが、箱に入って寝ている。猫も自分で空間を分けて使っている。

団地の中で「食寝分離」と言うのが標準になって使われた。このモデルが団地以外でもその後ずっと使われている。nLDKのようになって今でもある。夫婦の寝室、風呂、トイレ、キッチン、リビング、玄関、子供部屋のようになっている。分けるには物理的な理由もある。例えば水を使う部屋どうしはできるだけ近い方がコストが安いし換気の面でも似た性能が必要だ。でも、もしその問題がクリアできても「分ける」は存在し続けるだろうと想像する。

映画やドラマに出てくる億万長者の住む城のような家は1つ1つの部屋は広いけれど、やはり分けられているイメージがある。部屋が多くてお屋敷の中で迷ってしまうような。体育館ほどのだだっ広い1つの部屋に全てが入っていそうなイメージは無い。


うーん、人も猫と同じなのだろうか?やはり危険防止が分ける事の根本的な理由なのか?

新型コロナでこれまで毎日仕事に出かけていた人が家にいて、子供は学校に行けず、家族が一緒に1日の時間を家の中で過ごすようになって家族関係が悪くなるとか、中には暴力事件に発展すると言うようなニュースも出てきた。それが全体の傾向として増えたかどうかまではデータが無いのでわからないが、そうした問題も出てきた事は確からしい。

家族が一緒に過ごす事は総じて安心や安全を得るには良い事ではあるにしても、その中に入ると実は完全な安全、安心ではない。自分の経験の上でもそうだと感じる。父親と同じ部屋にずっといる事は困難な事だと感じるし、風呂やトイレに入るのに家族と言えど見られるのは全く現実的に考えられない。猫のように狭い場所で1人でしたい事がかなり多いのは確かだ。


日本の家ではお風呂とトイレが分かれているのが多い。家族で使うお風呂は1に1つ。トイレも共同で使うので家に1つだけ。そんな状態が全く考えられない国もある。トイレと風呂は一緒になっていてしかも寝室の横にある。だから面積が許せば寝室1つに必ずバスルームがセットになっている。だから寝室とお風呂やトイレが離れた場所に歩いていかなければならないなんて、しかもそのためだけに階段を昇り降りさせたりもするのはバンコクあたりのバックパッカーが泊まるドミトリーと同じだとなる。

しかしながら、ある意味、日本の家族関係は他国のそれよりは安全なのかもしれない。つまり、お風呂に入るのにパジャマを持って下着姿で歩けると言う意味だ。そう言う安全性の高い家族関係が背景にあるとも想像できる。それでも、壁が必要な程度には危険かもしれないが。


なぜこんな事を今更考えているかと言うと、理由は2つある。

1つは、写真でいろいろな建築家さんの家にまつわる作品を見ていると、その多くが従来の家のような壁やパーティションが無いかとても少ない。あってもそこに穴が開いていて壁らしい機能を捨てている。他人の家の中を写真で見せてもらうと狭い敷地であってもよく言う「気持ち良い空間」が作られていて納得する。家族がべったりではないにしろ、いると言う気配以上のものを感じる事ができて、それは家族のコミュニケーションに貢献する(らしい)。こうした傾向は、コミュニケーションしたい要求を反映してのものなのか?それとも、建築側の使命感として人どうしのコミュニケーションを促進するあいまいさを導入しただけなのか?

しかしながら、今現在でも「分ける」の方がメジャーなものとして市民権を得ているのが事実で、その不整合はどう考えれば良いのかとも思う。


もう1つは、これとは全く関係無い事だが、脱構築と言うようなのがあって、これに関してはいろいろ語られているしその内容もいろいろで簡単に一言二言で言えるものではないのだけれど、本当の根の部分まで遡るとどうやらこれはこうだと言う現状に疑問を呈するところから始まっているらしい。

それで、「一緒にする」と「分ける」が普通に誰もが疑問を持つ事なく行われている点に疑問を持っているのだ。分けるのを少なくする事に関しては、これと別の方向から多くの方々に検討されていて行われている。けれども、分け方に関しては手薄なのではないかと感じている。特に外観でなくてその中身と機能に関してだ。

上に書いた安全と言う前提条件が特に議論する事なく用いられている事や、プログラムの要素としてお風呂はお風呂と言う1つのエレメントとして不動の地位を保っているような事がそれが本当に今後も当たり前として通用するのか?と言う事だ。

変な話だけれど、東南アジアを旅行してどこかのお店で1皿頼んで食べる。レストランとしてはそれが普通で東京でもそれは変わらないが、キッチンまで同じとは限らない。そのレストランの裏に回って見るとレストランの建物の裏側に下水の溝が通っていてその脇に外国から出稼ぎで来ている労働者がコンクリートのたたきに座って盥を前にして皿を洗っている。日本ではキッチンの中に食洗器や洗い場が必ず作られていてそれはセットとして存在するが、ここではそうではない。少なくとも食器洗いは外に置かれて分割されている。労働も分割されているから見習いの調理人が皿を洗う事もない。

一般家庭でもキッチンに関してはドライキッチンとウェットキッチンに分かれている場合も多い。火を使う場所と洗い物や煮炊きが分かれている。掃除用具の置き場はどうだろう?日本ではクローゼットと一緒にしたりする場合があるが、外国人家政婦さんを雇うのが普通の国では自分の服と箒、バケツや床掃除用の洗剤を一緒に置く等はもっての外だ。

こうした事は生活習慣から来るものだけれども、それにしても、今のやり方、つまり分け方はどうなのだろうか?本当に分ける必要があるところで分けているのか、それとも必要や習慣と関係なく別のアイデアを導入して分けても構わないのではないかと思っている。その結果が機能的に異形であったとしても、それもアリにできる方法は無いのか?と。

2021/11/01

「sanwacompany Design Award 2021」提出案 その2

 

こちらは提出する前のスタディ版パネル。特に説明を書き加える必要の無い単純なプロダクトなので3つのパーツと使い方(右下)を添えているだけ。

最初に、なぜ「Libesking Shader」と言う名称になったかと言う事から説明する。単純なバーを適当に、いやデタラメに組み合わせて網状にすると何かに似ている。そう、建築家ダニエル・リベスキンドのスケッチだ。リベスキンド氏と言えば、建築に興味がある人なら誰でも知っている脱構築建築の有名人。製品名の由来はそれだけ。面白がって付けている。

審査員の方々なら理由を言わなくてもわかってくれるはず。

そしてパネルの家だけれども、これはミース・ファンデルローエのファンズワース邸を描いている。手描きだ。つまり、モダンの雄ミースのデザインに脱構築を乗せていると言うわけ。

建築マニア向けのシャレになっている。(審査には影響しないだろうが、その程度のシャレはあっても良いはず。)

このパネルを見ていて何となく物足りない気がしてしまって提出版は少し変えた。

変えたと言っても内容には何の変更もない。パネルの見た目だけの変更になる。少しポストモダン調にした方が動きがあって好きなのだ。ただ、これまでの受賞作品が全てがモダンスタイルなのでこれをどう見られるかは心配だ。


提出パネルには傾いた四角形、スタディでは傾かない青い四角形を挿入した。以前の「スターハウス」のパネルには傾いた黄色い四角形の中にコンセプトを入れた。こうしてアクセントとしてこのようなものを入れる事の意味は何だろうと、自分自身で入れながら時々考えている。

提出品の意味としては本当にアクセントでしかなく、無ければ無くても説明には困らない。だが、ある部分を目立たせる時や全体に躍動感を持たせたい場合にはどうしても使いたくなる。自分はグラフィックデザインの勉強はした事が無いが、その知識がある人はこうしたものをどのように使うのだろう? もしくは使わないのだろう? これは今後の課題だと考えている。


「sanwacompany Design Award 2021」提出案 その1

 

提出品その1の「PerchCam」。

最近の言えばモダンデザインを採用するものも多い。シンプルでかっこいい。ただ、そこに取り付ける全ての物がそのデザインにマッチするとは思えない。特に防犯カメラはその典型だ。性能の良い物を採用しようとすると形状がゴツイ。ゴツイ方が見た目で防犯になるのかもしれないが、家の外観デザインの事を考えると...うーん、そんなの取り付けたくないなあと思わないだろうか?

そして、この企画の大きな動機の1つは、人にとってどんなに美しい建物を建てたとしても元々そこにいたはずの動物たちにとっては無用の長物である事に間違いはない。それもどうにかすべきじゃないだろうかと考えた。

以前にその事を最初に思ったのは、ザッハハディドが香港に建てたか、計画して建てられなかったか忘れたが、氏のスケッチだった。空中に付き出した白い建物が確かに美しい。その周囲には緑の木々が描かれていた。人には良いが、動物には迷惑で何の役にも立たない物だよな、と思った。

そうだ、せめて家に止まり木位は付けてやっても良いのではないか?と言う発想。単純だ。


カメラのスペックは市販されている実在のカメラを参考にし、画角を計算するサービスで計算したものを採用している。その結果、鳥の止まる位置と遠方の人を同時に写せるレンズと(一般的な)撮像素子を想定する事ができた。


パネルの左上の四角い家のイラストは自前で描いている。家に見えると良いが。